2019.03.17
メルセデスの初代Aクラスは○○だった!? レジェンド評論家が語る、人気連載「岡崎宏司のクルマ備忘録」第87回
メルセデスベンツが満を持して小型クラスへ参入し、話題になった初代Aクラス。そのキュートなルックスは世界中で賞賛されたが、一方である問題が指摘された。当時、注目の新型車に乗ったベテランジャーナリストはなにを感じたのか?
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第87回
初代Aクラス初期型の受難
しかし、初代Aクラス導入時には危機的な問題があり、世界から強いバッシングを受けた。その現場に立ち会ったので、経緯をお話しよう。1997年の話である。
初代Aクラスは「サンドイッチコンセプト」と呼ばれる、特殊な2層のフロア構造を持つ。この構造は、元々、燃料電池かバッテリーを床下に置くことを目指したものだった。
が、燃料電池もバッテリーも実用化レベルには遠く、開発のメドすら立たない。そこで、ボディの基本構造はそのままに、内燃エンジンを積むFF車にしたということだ。
2層構造のフロアは当然高く、乗降性ではハンディになったが、フラットなフロアは新鮮で快適でもあった。
アイポイントが高いことによる運転のしやすさも、実用ファミリーカーとしてはプラス。
衝突時に、エンジン/トランスミッションが床下(本来のバッテリー・スペース)に潜り込むため、生存空間が確保され、安全性が高いというのもウリの一つだった。
しかし、1997年に登場した初代モデルの初期生産車は、ひとことで言って「酷かった!」。
品質的にもメルセデスにはあるまじき低レベルだったが、中でも酷かったのは操安性。
僕は試作段階から触れる機会があったが、とにかく「怖い!」クルマだった。とくに高速領域での緊急回避動作、、高速で急ハンドルを切ったような時の安定性は「絶対市場に出してはならないレベル」だった。
当時のメルセデスは「最善か無か」の社是をもかなぐり捨てて拡大路線を突っ走っていたが、その影響が悪い方に出た代表的サンプルだった。
Aクラスに初めて公的に試乗したのは欧州で開かれた国際試乗会。しかし、そこでも改良/改善はみられなかった。見た目の品質も悪かったし、いちばん危惧していた高速での安定性も「怖いレベルのまま」だった。
メルセデス神話を信じる一人として、メルセデス信奉者の一人としては、信じ難いことが起こってしまったのだ。
高速での緊急回避操作は2度ほどトライしたと記憶しているが、それ以上トライする気にはなれなかった。ハッキリは覚えていないが、
高速でのトライとはいっても日本レベルの速度域であり、欧州レベルの速度域ではない。
それでも「恐怖を感じるには十分」だった。
より具体的にいうと、高速の急ハンドルではロールが大きく、ロールの挙動も不安定。風の影響も受けやすく、とくに、高速道路で大型トラックやバスの横をすり抜けるのはかなり緊張を強いられた。
路面の不整にハンドルを取られやすいのも弱点だった。
そんな不安定な走りの結果はすぐに出た。Aクラスの安定性の不備は世界中のメディアから強く指摘された。辛辣なレベルの評価/指摘も多かった。
僕もその一人だった。多くの媒体に寄稿していたが、「危険なクルマ」「買ってはダメ」「少なくとも改善を確認するまで待つべき」といった言葉を使った記事を書いた。
結局、メルセデスは早急に対応せざるをえなくなり、発売開始早々リコールを出し、改良に取り組むことになった。
とくにESPの標準装備には驚いた。当時、メルセデスであっても、ESPを装備するのは、SクラスのトップモデルであるS600しかなかったのだから。
足を固め太いタイヤを履いたのに、乗り心地が予想より悪くなかったのにもホッとした。
メルセデスは、車両の改良だけではなく、謝罪広告や改良車の試験結果等の広告を矢継ぎ早に展開して、信頼の回復に努めた。そのためのキャンペーン費用は、当時の金額で100億円にもなったといわれたが、その効果は確実にあったようだ。
こうした対応で、メルセデス・ブランドは深い傷を残さずにすみ、Aクラスの信頼回復も順調に進んだ。
僕もすぐ、改良されたモデルに乗りに行き、「もう大丈夫です」「安心して下さい」といった内容の記事を書いたことを覚えている。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。