● ハーリー・アール(1893-1968)【1950年代】
カーデザイン創成期のキーパーソン
ゼネラルモーターズ(GM)のデザイン部門(最初はアート&カラーセクションと呼ばれた)を率い、キラ星のごときクルマを送り出した。
1927年にGMとのつきあいが始まり58年まで勤務した。その間にアールが実現したことで、自動車界に大きな影響を与えたものは少なくない。
一つはショーモデル。実現の可能性は低くても、会社のポテンシャルを消費者に感じさせ、将来の新車へとつなぐ役割を担わせた。
ロケットや船からインスピレーションを受けたようなショーモデルの数々が、そこを訪れた観客を魅了した。
アールが手がけたなかには、シボレー・コルベット(1953)、ポンティアック・ボネビル・ショーカー(1954)、ポンティアック・ワイルドキャット(同)などが含まれる。
優秀なデザイナーを育成
ビル・ミッチェル(在籍1935-77)は、コルベット・スティングレイ(1963)やオールズモビル・トロネード(1966)をデザイン。
三つめは、年次改良という概念を自動車業界に持ちこんだこと。それによって買い替えを促進するというものである。
60年代までは安全基準も燃費規制もなかったため、デザイナーには大きな“自由”があった。
1959年、ソ連(当時)のフルシチョフ共産党第一書記が訪米した際、キャデラックのテールフィンを指して「これはなんのためについているのですか」と質問。
米国側のホストを務めていたジョン・F・ケネディ上院議員(当時)は言葉に詰まったというエピソードを読んだことがある。
● セルジオ・ピニンファリーナ(1926−2012)【1960年代】
カーデザインの確立に大きく貢献
GM、フォード、クライスラーといったメーカーの派手なデザインを横目に、米国という大きな市場で成功するために何が必要かを検討していった。
欧州車のよさは、しっかりした作りや、モータースポーツでの経験を通じて獲得した走行性能などにあるとされたが、もう一つの大きな武器がデザインだった。
60年代にクルマの基本的なデザインは確立したといわれる(その後の“進化”はエレクトロニクスだけ)。そこに大きな貢献をしたのが、ピニンファリーナ一族だ。
カロッツェリアが、美しいデザインを生むもの、という意味の“国際語”になった理由
イタリアをはじめ、彼が世界中の自動車メーカーに提供したデザインの評価は高く、イタリア語で車体製造者を意味する<カロッツェリア>が、”美しいデザインを生むもの”という意味の“国際語”になったのはそのためだ。
ちなみにピニンファリーナはピニン・ファリーナと書かれることもある。そのときはバティスタを意味する。そもそもピニンとは兄弟のなかで下のほうの者を意味するピエモンテ(トリノなどがある北イタリアの州)方言だからだ。いまは改姓が認められて、ファリーナ家はピニンファリーナ家になった。
空力ボディなど新しい提案で注目されたバティスタ
量産車では49年のフォードが知られているが、ロングフード、後退したキャビンが生む動的なプロポーション、効果的に採用されたクロームなど、このクルマならではの特徴が多い。
数々の名車を生み出したセルジオ
セルジオのディレクションの下で生み出された60年代の名車の数々は忘れがたい。その仕事はアルファロメオやランチアやフェラーリやフィアット、それにプジョーと多岐にわたる。
さらにショーモデルとして「ディーノ206Sプロトタイプ」(1965)や「ディーノ・コンペティチオーネ」(1966)はデザイン史に残るモデルだ。
70年代に入ると、「365GT4BB」(1971)、「365GT4 2+2」(1972)、「308GTB」(1975)などが続き、1984年の「288GTO」と同年の「テスタロッサ」には驚かされたものだ。
それぞれのクルマには特定のデザイナーがいるが、セルジオと、補佐役を務めていたロレンツォ・ラマチョッティの的確なアドバイスが、より完璧なスタイリングの実現に貢献した。
● ジョルジェット・ジュジャーロ(1938―)
デザインとテクノロジーを結婚させるという課題を上手にやりとげた
1950年代の米国車が自由を表しているとすれば、70年代は自動車にとって窮屈な時代だった。石油ショックがあり、衝突安全性という概念も導入された。
そこにこそ、しかしながら、ピエモンテ州クネオ出身のジュジャーロが輝く場があった。キャリアの振り出しはカロッツェリア・ベルトーネだ。
カロッツェリア・ギアに移ると、仕事の方向性に変化が生まれた。フォードなどのクライアントが求めるのは派手な美でなく、新しい機能だったからだ。
ギア時代(1966-68)のジュジャーロは、比較的コンパクトな車体で、スペース効率や都市内での機能性などに新しい提案を採用したプロトタイプを手がけるように。
デザインにおける“提案”とはスタイリングにとどまらないとジュジャーロが気づいたのは、おそらくこのときだろう。
イタルデザインの独自性と存在感の確立に成功
マセラティ「メラク」(1972)、同年の「ブーメラン」、やはり同年のロータス「エスプリ」や、デザインスタディの「アッソ・ディ・ピッケ」(1973)も魅力あるモデルだった。
キャリアのなかで最も重要な仕事の一つと語るゴルフ
アルファスッドはコンパクトな車体にもかかわらず室内はとても広いうえに、トランクスペースは広大だった。操縦性も意外なほどスポーティで、画期的なモデルと評価したい。
アルファスッドに品質の問題がなかったら、今も多くの人に愛されるクルマになっていただろうが、あいにくその栄誉はゴルフに奪われてしまった。
ゴルフは「自分のキャリアのなかで最も重要な仕事の一つ」とジュジャーロ自身が語っている。シンプルに見える面を使い、機能主義に徹したデザインをしているようだが、見飽きない。
面白いのは、記録によるとジュジャーロは当時、もう少し全長を延ばしたいと提案していたことだ。ヘッドランプも矩形を想定したそうだ。
日本のメーカーからも名作を残す
完成度が高いデザインで、卵のように一体型のフォルムが生む緊張感は見事のひと言。今も若い人が中古車を探しているというのもよく分かる。
80年代以降、開発の主導権はメーカーに
フリーゴとはイタリア語で冷蔵庫。パンダがそれだとするのは、日常生活の足としてデザインしたという意味だろう。
パッケージングにはとても優れていたが、ほとんど平面で構成するボディなどは、巨匠にとって少し物足りなかったのかもしれない、とそのとき解釈したものだ。
イタルデザインは80年代も90年代もそれなりに印象的なデザインを生み出してきたが、空力や衝突安全性など、複雑な要件がデザインに入るようになってから、開発の主導権はメーカーに移ってしまった感がある。
もちろんそこでも生き残ってきたのは、開発能力や技術的ソリューション力の高さゆえだ。生産システムの開発もイタルデザインの重要な仕事である。
夢の部分は少し小さくなったかもしれないが、デザインとテクノロジーを結婚させるという課題を上手にやりとげたという意味でもジュジャーロの存在感は今も大きい。
● 小川フミオ / ライフスタイルジャーナリスト
慶應義塾大学文学部出身。自動車誌やグルメ誌の編集長を経て、フリーランスとして活躍中。活動範囲はウェブと雑誌。手がけるのはクルマ、グルメ、デザイン、インタビューなど。いわゆる文化的なことが得意でメカには弱く電球交換がせいぜい。