2020.01.26
カルロス・ゴーンは日産に何をもたらしたのか?
何かと話題のカルロス・ゴーン氏。1999年に彼が日産を立ち直らせるべく、筆者に届いた依頼とは。
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第126回
ゴーン体制始動時の日産と僕の関係
しかし、そのことはさておいて、1999年、ゴーンが瀕死の日産を立ち直らせるべくルノーから派遣された直後、日産から僕に届いた依頼は興味深いものだった。
「日産の良いところ悪いところ、日産がとりあえず取り組むべきことを、思っているままにすべて話してほしい」という依頼だ。
で、話す相手は超大物。やはりルノーから送り込まれたゴーンの腹心中の腹心。実名は控えるが、A氏としておこう。
トップが変わる、ましてや日本人(日産)から外国人(ルノー)に変わるのだから、多くの人から多くのことを聞こうとするのは当然の行為だし、必然の行為でもある。
だから、僕以外にも多くの人たちと、連日のようにミーティングは重ねられていたはず。
そんな中の1人だと、僕は軽い気持ちで依頼を受けた。ところが、そのミーティングは予想に反してすごくヘビーなものだった。
ミーティングの場には、当時の日産本社に近い築地の高級な料亭の一室が用意されていた。
参加者はA氏、僕、通訳の3人だけ。
挨拶もそこそこにA氏は切り出した。
「私が日産に来ることが決まってから、いろいろな形で日産のことを学びました。社内の人、社外の人、多くの方々にもお会いしました。で、今日はその締めくくりとして、岡崎さんの時間をいただきました」
「岡崎さんは、とくに商品、開発関係に関しては、長期に亘って日産と深い関わりを持ち、日産をもっともよく知る方と聞いています。日産は生まれ変わり、前に進まなければなりません。そこで、今日は、岡崎さんの深い経験と知見を基にしたご意見、ご提案を伺いたいということです」
A氏は、カッコよく、知的で、物腰も洗練されている素敵な人物だったが、仕事の話しに入ると、とたんに目と言葉は鋭く変わった。
「それと、私は時折質問はしますが、意見はいいません。今日は、岡崎さんの話しを伺うことだけが目的です。時間も気にしないで下さい、いくら長くなっても、遅くなっても結構です」
異例のこと尽くしだった。海外メーカーのトップや役員から意見を求められ、お会いすることは珍しいことではなかった。しかし、これほど張り詰めた「時間無制限一本勝負」のような経験は初めてだった。
そして、A氏と対の話しが始まった。
「日産の現状をどうご覧になっていますか?」が、最初の質問だった。
僕は、当時の日産の状況をもっとも理解しやすく、かつ感覚的にもわかりやすい例として、日産本社ショールームと銀座ショールームのことから話しを始めた。
東銀座にあった日産本社の一階にショールームがあったことは、まだ、多くの方が覚えていらっしゃるだろう。銀座ショールームは今も引き継がれ、銀座の名所的存在になっているし、日産車を存在感を大いにアピールする場所になっている。
ところが、当時は酷かった。銀座ショールームは、待ち合わせ場所としては重宝されていた、、が、製品やブランドを輝かせ、魅力的に見せる場所としてのショールームの役割はまったく果たしていなかった。
僕は「銀座の忠犬ハチ公」と呼んでいた。
日産幹部にはことある毎に申しあげ、聞いた人はとりあえず深く頷きもした。でも、まったく改善はされなかった。
東銀座の本社ショールームも雑然とクルマが並んでいるだけ。僕は「全面ガラス張りのクルマ置き場」と呼んでいた。
ショールーム前には広いファサードがあったが、そこにもナンバー付のクルマが雑然と並び、パイロンやロープで無雑作に外部を遮断する、、そんな惨状だった。
その判断と決断、そして動き出しの速さに僕は驚き、感激した。日産は変わると確信した。
A氏との話は実に7時間にも及び、出された質問に答え続けた。質問は単純明快。僕はその問に対して、まずは従来の日産の取り組み方を話した上で、今後はこう取り組むべきだろうと、真剣に答え続けた。
「今後の日産に残すべきモデル、残さなくていいモデルは?」といった難しい質問も出たが、僕は迷いを見せないように、A氏にも迷いを持たせないように、意を決して「○×」をハッキリ言った。
その後の日産車の流れで、僕の意見/考え方にほぼ満額回答がでたことがわかった。つまり、「残すべき」といったモデルは残され、「残す必要なし」といったモデルは消えたということだ。
日産車は技術的には優れていても、それが販売に結びつかないというのが、大きな泣き所のひとつだった。ゆえにデザインに関してもいろいろな提言をさせていただいた。
2代目キューブ、そして3代目マーチのデザイン初期のモデルをスタジオで見た時、僕は新生日産の成功を確信したが、2002年に発売された両車とも予想通り大ヒットした。
また、単にハードのデザイン評価に留まらず、スタジオで新型車を評価する際、例えば「評価者をどんな心理状態にするべきか」といった辺りまで踏み込んだ提言もした。
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(1990年代に日産車の動質を世界一のレベルにまで押し上げる)にも示されるように、日産の走りの追求は高いレベルにあった。
そんな活気に満ちた、日産の技術開発の流れを途切らせないようにもお願いした。
A氏とは、その後も何度かお会いし、意見交換をした。日本を去るときの、ごく少数だけのさよなら会にも呼んで頂いた。ちなみに、A氏の日産在籍期間はなぜか短期で終わった。
新生日産のスタートは順調だったし、僕もあれこれお役に立てたと思っている。しかし、その後の日産は次第に内向きになり、かつてのような風通しの良さはなくなっていった。
ゴーン以前の人とゴーン以後の人との摩擦、確執も多く耳に入ってきた。それゆえか、ゴーン以前の人の流出は続き、残った人も殻に閉じこもった。僕にはそう思えた。
僕は日産大好き人間だった。日産から声がかかると喜んであれこれやった。そして、少なからぬ貢献もしたと自負している。
ちなみに、かつて激論を戦わせたような「仲間」との交流は今も続いている。素晴らしい人たちだ。
最近の日産は不調不況に陥っていたが、そんな中での激甚災害(ゴーン逮捕と国外逃亡)、、立て直す即効薬などないだろう。
となれば、残った人たちが必死に、全力で信頼回復に取り組むしかなすすべはない。
これをきっかけに、かつてのような風通しのいい、外にも扉を開いた日産に戻ってほしい。
そうすることが、復興の早道だとも思う。
日産に1日も早く笑顔が戻るのを願っている。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。