2020.02.23
レジェンド自動車ジャーナリスト、岡崎宏司氏が振り返る64年の軌跡
日本のレジェンドジャーナリスト岡崎宏司氏が、今年の4月でクルマと関わるようになって64年目になるという。長い経験を持ちながら、常に新しいモノ・コトに興味を抱き続ける筆者が、そのクルマ人生を振り返ります。
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第128回
僕のハッピーなクルマ人生!

当時は小型4輪(1500 cc以下)免許証が16歳でとれた。今よりも2年早くクルマを運転できたということ。もちろんバイクも。
16歳と18歳、、この2年の差は大きい。
16~18 歳は青春真っ盛り、ヤンチャ最盛期と言えるかと思うが、そんな時期にクルマとバイクを乗り回せたのはハッピーだった。
とくにバイクがもたらす自由と行動範囲の広さは最高だった。もちろんスピードにも惹かれた。ヤンチャ最盛期とも相まって、今ではあり得ないような「スピード記録」もあれこれ作った。
前にも書いたが、東京駅から横浜駅まで18分(第一京浜道路)で走ったというのも、そんなヤンチャが成し遂げた成果?のひとつだ。
学校の時間以外は、ほとんどバイクと一緒だったし、遊ぶのもバイク仲間。六本木の溜まり場に行けば、必ず何人かの仲間に会えた。
そして、その時の気分/雰囲気で、「これから江ノ島までひとっ走り行くか!」となったり、深夜までお喋りを続けることになったりする。そうなれば、家に帰るのは明け方。
1~2時間寝て学校へ行く。いくら眠くても、絶対に学校はサボらなかった。バイクも大好きだったけど、学校も大好きだった。
1~2時間寝て、、といったことが週に2~3度あってもバテなかった。当時を思いだす度に、若さに勝るエネルギーはないと思う。
高校時代、、青春時代は、こんな日々を楽しみつつ、アッというまに過ぎていった。
もちろんGFはいたしデートもした。が、僕の青春時代のほとんどはバイクと共にあった。
しかし、高校卒業と共に、バイクとの熱い日々は終わった。なぜ、そんな簡単にクールダウンできたのかはわからない。
高校卒業と共に「子供も卒業」「ヤンチャも卒業」といった感覚が、知らぬ間に芽生えていたのかもしれない。
そして、大学生になり「大人になった僕?」は、4輪に目覚め、GFと過ごす時間もグンと増えた。
そんな中、大学1年から付き合い始めたGFと結婚。付き合いは60年近くなったが、今も仲良く楽しくやっている。
学生結婚で、2年ほど収入のない期間があった。なのに、MGを買ったりするものだから、「いつも財布は空」。
学校が終わった後、夜の銀座のフルーツパーラーでバイトして、最小限の小遣いはひねり出した。が、もし、「ビンボーなMGオーナー・ランキング」でもあれば、上位を占めたのは間違いなかっただろう。
それにしても、家内もクルマ好きでほんとよかった。
クルマの借金返済でいつも家計はめいっぱい。洋服やアクセサリーに回すお金などなかった。
でも、グチひとつ言われたことはなかった。
大学卒業を控え、内定していたテレビ局(当時は花形業種だった)を蹴って、モータージャーナリストなる怪しげな職業を選んだときも後押ししてくれた。
それだけに僕も頑張った。加えて、日本のモータリゼーションが急上昇しはじめた時期とも重なり合って、年々仕事も収入も増えていった。
30歳を少し超えた辺りから、ある程度だが、金銭面での余裕もでてきた。そこそこ好きなクルマも買えるようになった。小さいながらも心地よい家に住めるようにもなった。
僕は旅が好きだが、1970年代後半辺りからは、海外への旅も増えた。ひとりで、大好きなオーストラリアやアリゾナの砂漠へ行ったり、LAで遊んだり、、そして、家族とヨーロッパやアメリカ巡りをしたり、、。
旅の足はもちろんクルマ。海外メーカーも頼めばすぐ、どんなモデルでも用意してくれた。到着する空港に配車してくれることも少なくなかった。
猛烈に忙しくはあったものの、大病もせず、ある種平穏な、そして楽しい時を重ねていった。
1970年代後半には、仕事面での大きな転機もあった。それまで、自動車メーカーとモータージャーナリストの間には、厚く高い壁があった。親しくしているメーカーでも、その内部にまで招き入れてくれることはなかった。
前にも別稿で触れたことがあるが、その壁をまずはトヨタが開いてくれた。新型車の開発に参加させてくれたのだ。
ここは、僕のクルマ人生にとって、ひとつの大きな転機になった。
というのも、開いた門の中では多くの人たちと触れあう機会ができる。その結果、車両の開発に留まらない、幅広い分野での意見交換や仕事の依頼が相次ぐことになったのだ。
それは海外メーカーにまで及んだ。外国語に弱い僕なのに、いろいろな仕事が舞い込んだ。
内外メーカーのトップから「意見を聞きたい」と呼ばれることも度々あった。
といったように、僕のクルマ人生は順風満帆だった。挫折感を味わったこともない。ほんとうに幸せなクルマ人生だった。
そんな幸せなクルマ人生は、僕が作ったものではない。その間に出会った多くの方々から頂いたものだ。ただただ感謝するしかない。
そして、多くの方々が作ってくれた多くの機会に、僕は懸命に取り組んだ。大きなことでも小さなことでも、、。
趣味ではなく、仕事としてクルマと向き合い始めてから56年の時が経っているが、文字通りアッという間に時は過ぎていった感じだ。
家内の勧めもあって、75歳を境に海外に出る仕事は辞退することにした。でも、もうすぐ80歳になろうという今でも、国内での仕事は裾野を拡げながら続いている。
だからだろう。未だ多くのことに興味を持ち、あれこれ新しいことに目を見開き、耳をそばだてている。それが、楽しくてしかたがない。
僕は旧いクルマも好きだし、新しいクルマも好き。昔を懐かしむことも当然あるが、もしかしたら、それ以上に今を楽しみ、未来をも楽しみたいと思っているのかもしれない。
僕のクルマ人生はこの4月で64年目に入る。
でも、もう少し、大好きなクルマに関わり続けたいと思っている。
それも、外から眺めるだけではなく、直接手に触れながら多くの方々と意見交換する、、そんな環境で関わり続けたいと思っている。
素晴らしいクルマ人生を与えてくれた、あるいはこれからの続編を共に綴って下さる方々に、重ねて感謝したい。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。