2023.11.05
僕の人生を変えたのは、しゃにむに突っ走ったあの頃のホンダ(本田宗一郎?)だった
筆者にとってホンダは子供時代から身近にあって、常にワクワクを提供し続けてくれる特別な存在でした。ホンダカブ、T360、S600、S800と筆者が見て、乗ってきたクルマたちが、後に筆者を自動車評論家の道へと深く引き込んでいったのでした。
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第220回
「ワクワク時代のホンダ/1」
10歳上の兄が買った「ホンダ カブ(F型)」を、春休みか夏休みだったか、、無人の学校の校庭で運転させてもらった。
排気量50ccの2サイクル単気筒で、出力は1馬力。最高速度は35km/h。今となれば、笑ってしまうような性能でしかない。でも、それを運転するのは、僕にとっては大変な出来事だったし、大変な喜びだった。
小走りで支えてくれていた兄が「離すぞ、いいか!」と言いながら手を離し、自分ひとりで走り出した瞬間の快感!!、、今も、なんとなくだが肌感覚として残っている。
その感覚を表現するのは難しい。だが、あえて言葉にするなら、「自由」とか「解放感」といったことになるだろうか、、。
天気が良く、抜けるような青空が広がっていたことははっきり覚えている。、、その「青空に向かって飛び出していくような感覚!」とでもいえばいいのかもしれない。
価格を調べてみたら「2万5000円」。当時の大学卒の初任給は6500円程度だった。つまり、大卒初任給のほぼ4カ月分に相当する価格だったということ。
現在の平均的な大卒初任給は23万円くらい。4カ月分では92万ほどになるので、ダイハツ ミライースやスズキ アルトが買える。70年前のエンジン付き乗り物は、とんでもなく高価なものだったのだ。
ちなみに、1964年、僕が自動車雑誌に就職した時の給料は2万7000円くらい。50万9000円だったホンダ S600を買うには、19カ月分の給料投入が必要だった。
ホンダの4輪進出は1963年のT360から始まる。軽トラックだ。「なんだトラック!?」と思う方もいるかもしれない。、、が、「本田宗一郎が直接、開発に関与した」とされる唯一の4輪は、「只者ではなかった!」。
短いセミキャブオーバー型だが、シンプルなデザインはカッコいい。で、フロントシート下(ミッドシップ)に積まれるエンジンはなんと「アルミ製DOHC4気筒!」。
クランクにはニードルローラーベアリングが組み込まれ、各気筒別にキャブがつく「4連装キャブ」。もっとも実用に徹さなければならない軽トラックに、30ps/8500rpmというスーパーなエンジンが積み込まれたのだ。
T360に乗ると、自然に走りはアップテンポになり、リズミカルになる。8500rpmまで引っ張って、キレのいい4速MTでシフトを繰り返すのはワクワクだった。
重量バランスのいいミッドシップレイアウトがもたらす身のこなしもよかった、、はず。ネガティブな記憶はない。そう、T360はまさに「スポーツトラック」だった。
同じ1963年には「S500」が誕生。ルックスはよく性能は「刺激的!」だった。、、だが、わずか数カ月でS600にバトンを。なので、生産台数も500台ほどで終わった。
これほど短期間でのバトンタッチは、常識的にはありえないこと。でも、ホンダは(本田宗一郎は?)違った。とにかく、しゃにむに前進し、しゃにむに突っ走った。
S600は、1964年3月にS500からバトンを受けた。そして、S800にバトンを渡すまでの2年弱でほぼ1万台を販売。スポーツカーとしては「異常なほど!?」の快進撃だった。
S600のエンジンはDOHC4気筒。606ccの排気量から57ps/8500rpmを引き出した。最高出力回転数は8500rpmだったが、レッドラインは9500rpm!
しかも、レッドラインまで、カケラほどの澱みもなく、滑らかに一気に回り切った。これはもう「快感‼」でしかない。
S600に初めて乗ったのは、埼玉県和光市の荒川河川敷にあったホンダのテストコース。テストコースとは言っても、全長が2kmほどの直線路と転回場所があるだけ。
でも、S600は2kmの直線で本領を発揮した。9500rpmのレッドラインまで引っ張っても、滑らかに完璧に回り切った。
束の間だが、転回場所では、入り口から出口まで、速度を変え舵角を変え、ハンドリングやグリップ性能のチェックに集中した。
デビュー後すぐ、S600はドイツの「ニュルブルクリンク500km」に出場。「1000ccクラス」でヨーロッパの強豪を破って優勝した。結果、その存在は一気に世界に広まった。
僕の仲間でS600を買ったのは2人。ともに「すごく速いヤツ!」で、1人は白を、1人は赤を買った。
白を買ったのは、後にトヨタのエースにまで上り詰めた川合 稔。赤を買ったのは、ジムカーナでもサーキットでも、川合と常に競い合っていた木邨という男。
木邨にもメーカーから強い引きがあったが、家業を引き継がなければならない立場から、泣く泣く断念せざるをえなかった。
でも、この紅白のS600はほんとうに速かった。ジムカーナではことごとく勝利を手にしていたし、鈴鹿のタイムも光っていた。
S600は維持費もあまりかからなかったようだが、唯一の弱点はホイール。
そして、1966年、SシリーズはS800に進化。「エスハチ」は、スポーツカー入門車として、モータースポーツへの入門車として、圧倒的な支持を受けることになる。
791ccの排気量から引き出されたのは70ps/8000rpm。ゼロヨンは16.9秒と1,6ℓクラス 並の加速性能を発揮し、最高速度も160km/hに達した。
当時のライトウェイト スポーツの中では、最小の排気量でありながら、最高のパフォーマンスを発揮したということだ。
「最高のパフォーマンス」の中には、無限に回りそうなほどの高回転域でのスムースさ、アクセル操作に瞬間的に反応するエンジン レスポンス、歯切れ良く決まるギアシフト、シャープなハンドリングも入っている。
古くから知る知人に、現在、S800を所有している方がいるが、数年前、彼のS800のステアリングを握らせてもらった。
久しぶりに会ったのだが、彼がS800を手に入れたことは知らなかった。なので、ピンポーンと呼び鈴が鳴って迎えに出たら、赤いS800が止まっていたので驚いた。
家内も「ワーッ、エスハチだー‼」と大ハシャギ。すると彼はすぐ、「乗ってみてください。難しいことはなにもありませんから」と、僕にキーを手渡そうとした。
最初の四つ角を曲がった辺りでもう、「乗りやすい」ことはわかった。
そして、ステアリングを握らせてもらったのだが、戸惑うことは一切なかった。半世紀以上前に誕生したスポーツカーは、半世紀後もスムースに、スイスイと、スポーツライクに走った。
家内は運転は固辞し、彼に乗せてもらったが、戻ってきた時の笑顔とハシャギようは、さらにさらにエスカレートしていた。
1960年代前半のホンダは、クルマ好きをワクワクさせ通しだった。
鈴鹿サーキットを作って日本にモータースポーツ熱を芽生えさせ、F1参戦2年目にして優勝を勝ち取るという、信じられないようなことをもやってのけた。
僕は、中学時代から脚本家に憧れ、その道を目指していた。だが、大学卒業を目前にして観た第1回日本GPに刺激されたことが、今の道を選ぶきっかけの一つになった。つまり、「ホンダが僕の人生を変えた」ともいえる。
さらには、1962年に創刊した「カーグラフィック」と、その主筆であった小林彰太郎さんへの憧れが加わり、僕の進路は変わった。
脚本家になって成功したかどうかはわからない。でも、とにかく、クルマ道へと深く引き込んでくれた「ワクワク時代のホンダ」、そして小林彰太郎さんには深く感謝している。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。