2020.05.03
日本のクルマを育てた、あの道のハナシ
自動車好きには有名な有料道路「芦ノ湖スカイライン」。実は本連載の著者岡崎氏は、「岡崎コーナー」という名前のコーナーがあるほど、「芦ノ湖スカイライン」の走りの名手として知られている。そんな氏が思い出を語ります。
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第133回
芦ノ湖スカイライン“全開の走り方”指南本!
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1962年の開通だが、当時、クルマをテストする場は極めて限られていた。しかも貧弱。
メーカーのテストコースにしても定常的なテストしかできず、走りを磨くにはほど遠い状態だった。こんなテストでは欧州車に追いつくなんて夢のまた夢と思っていたし、そう公言もしていた。
東京近郊でいえば、箱根路は「生きたテストコース」として貴重な存在だった。が、当然、一般幹線路でのテスト範囲は限られる。
そんな中、誕生したのが芦ノ湖スカイライン。有料の観光道路だから、平日は空いていた。早朝なら、ほぼ貸し切り状態で走れた。僕は1962年の開通以来、頻繁に通っていた。
僕が仕事としてクルマに関わるようになったのは1964年からだが、テスト車両の多くを芦ノ湖スカイラインに持ち込んだ。
メーカー開発関係者にもよく同行してもらった。「一般路上で事故でも起こしたら厄介」と引く人もいたが、志ある人は「生きたテストコースを走らせることが重要」という僕の趣旨に賛同。同行してくれた。
雑誌社の試乗コースとして多用されるまでにも時間はかからなかった。とくに、僕の関係していた雑誌は、ここを「主戦場」にするようになった。
ほどなく、メーカーからも「芦ノ湖テスト」の依頼が来るようになった。早朝に貸し切って、開発途上の新型車をテストするのだ。
僕はほとんど毎週のように芦ノ湖を走った。完全に僕の「ホームコース」になっていた。
インポーター経由で、海外メーカーからのテスト依頼も来た。それに立ち会うため、開発者を送り込んできたメーカーもあった。それも複数。
僕にとって、日本車にとって、さらには海外のメーカーにとってさえも「芦ノ湖スカイライン」は重要なテストコースになった。
とくに低中速領域の動質チェックに必要な条件はほぼ完璧に満たしていた。難しいコーナーの連続と適度なアップダウン、一般路ならではの路面不整、等々のコンビネーションは、小さな弱点をも容赦なく暴き出した。
ボディ、パワートレーン、ステアリング、サスペンション、ブレーキ、、すべての性能が高いレベルでバランスしていて、初めて気持ちよく走れる。
とくに厳しい要求が突きつけられるのはブレーキ。激しい攻めに耐えられるブレーキが組み込まれたクルマは、ごく限られている。
数年前、日本のメーカーから、芦ノ湖スカイラインを貸し切っての最新スポーツ車のテスト依頼があり、開発部門の人たちを横乗せして走った。比較車として持ち込まれたのはポルシェ911・カレラSのPDKモデル。
結果は言うまでもない。「世界基準の達成」という目標に対して、開発陣はある程度の期待と自信を持っていたようだが、テストが始まってすぐ結論は出た。「まだまだ遠く及ばない」という結論だ。
とくに、ブレーキ性能の大差には改めて愕然としていた。
でも、「本当のブレーキ性能」はもっともっと奥が深いし、タフさが求められる。クルマのすべての性能が関わってくる。
ちょっと路面の荒れたコーナーでの旋回ブレーキ辺りをイメージすればわかりやすいかと思うが、そんな条件下でのブレーキ性能には、体幹の強さを初めとした、あらゆる性能が関わってくる。
芦ノ湖スカイラインは、そんなところを容赦なく暴き出す。上記メーカーのテストでも、そこが改めて確認されたことがいちばんの収穫だった。
さて、ここからが本題だが、「芦ノ湖スカイラインを舞台にしたドライビング・テクニック本を書いてほしい」との依頼が来た。それも「全開の走り方指南」との内容だから驚いた。
相手は有力自動車専門誌。本誌別冊の小冊子として出したいとのこと。70年代の半ば頃だったかと思う。45年ほど前の話しだ。
ここで大事なのは「45年ほど前の話し」であること、、そう、半世紀近く前には、こんな出版物も「ありだった!」という点だ。
ことと次第によっては「貸し切り」可能な道路であり、メーカーが占有してテストをしているという事実もある。
長い間、箱根仙石原のホテルを拠点にした試乗会が行われてきたのも、芦ノ湖スカイラインという「走れる道路」があってこそのこと。
僕もその点だけは、いつも呪文のように唱えながら走ってきた。60年近く無事に走ってこられたのは、きっと「呪文」のお陰だと思う。
この一文を書くに当たって、書庫を隈なく探して「指南本」を見つけようとしたのだが、みつからなかった。僕の記憶では、本の初めか最後かに「呪文」のことを書いたはずだ。
それにしても、、「芦ノ湖スカイライン全開走行指南本」が平然と企画され、僕がためらうことなく引き受け、何事もなく出版されたのは、今考えるとただただ驚きでしかない。
さらには出版後も、、誰からも、どこからも、なにひとつお咎めがなかったのもまた驚きだ。
半世紀前の「安全意識」というか「安全世論」というか、、は、現在とはまったく違う次元にあったのだとつくづく思う。
ちなみに、メーカーの「芦ノ湖スカイライン貸し切りテスト」に僕が参加したのは、いちばん近いところで7年ほど前のこと。それほど昔の話しではない。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。