2024.04.21
免許証取得後1週間の息子にロングドライブをさせてみたら……
クルマの運転はいかにしてうまくなるのか。自動車教習所で教えてくれるのは基本だけ。あとは個々に経験を積むしかありません。今回は自動車評論家一家ならではの、ちょっと変わった家庭内教習のお話です。
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第231回
運転免許証取得前後の、わが家のしきたり!?
その後すぐ小型4輪免許は廃止。普通免許に統一され、免許年齢も18歳に引き上げられた。つまり、僕は16歳から運転できたうえに、何もせず普通免許に格上げされたことになる。なんともラッキーだった。
僕は運転教習所には1度も通っていない。16歳になってすぐ免許試験場に行って試験を受け、一発合格した。
僕には9歳年上の兄がいたが、この兄がクルマ好きで、僕はその恩恵に預かった。兄がクルマを買ったのは、僕が12歳(1952年)の時。まだ、クルマが「超貴重品」だった時代だ。
記念すべき「わが家第1号車」が納車された夜、僕は興奮してクルマから離れられず、食事の時以外は運転席に座り続けた。翌日、ほとんど一睡もせず学校に行ったが、眠気も疲れもなかったように思う。
そして、学校から帰ったら、クルマへと一直線。兄の都合がいい時は「ちょっとでもいいから、、」とせがんで走ってもらった。
とはいえ、いくら優しくて甘い兄でも許すはずはない。「16歳が近くなったら(免許が取れる日が近くなったら)なにか考えるから、それまでは絶対にダメ」とキツく言われた。
でも、、たしか15歳になった頃だったと思うが、、「そろそろ車庫入れの練習くらいはしておこうか」と言い出した。
当時のわが家の車庫は、ちょっと広い庭の一角にあった。だから、公道にはまったく出ないで車庫入れの練習はできる。
1速と後退のギア操作を繰り返し、微妙なクラッチ操作/アクセル操作を繰り返す。ハンドル操作も車両感覚の掴み方も練習できる。
僕は結構短時間で車庫入れをマスターした。そして次に取り組んだのはクランク走行。庭に障害物を置いて即席のクランクをつくり、そこを前進と後退で通り抜ける練習だが、これもすぐクリアできた。
でも、クランクは極めて狭い。なので1速でソロソロ走るだけだが、いい加減な運転は許されない。これもいい練習になった。
そして、16歳になる半年ほど前辺りだったかと思うが、ついに、兄はわが家の庭の外での運転をさせてくれた。
連れて行かれたのは、田んぼの畦道。一般のクルマはまったく通らない。
仲のいい農家の方に相談したところ、「弟さんの運転の練習ですか。いいですよ。どうぞお使いください」とのことだったという。
舗装はもちろんしていないが、作業車は走っているようで、走り難さはなかった。見通しのよさも100%だから安心できた。
畦道トレーニングは何回か行ったが、走る度に肩から力が抜け、運転は滑らかになっていったのだろう。3回目辺りで、「おまえ上手いな」と兄が言ってくれたのを覚えている。
といったような事前トレーニングで、僕は教習所には一度も通わず、運転免許試験場での試験にも一発合格した。クランクもスイスイ走り抜け、車庫入れも一発で決めて、、。
免許証取得直後の週末、箱根にドライブに行ったことも大切な思い出だ。当時は一般道しかないし、日帰りでの箱根往復はかなりハードなスケジュールだった。
そして時は経ち、、今度は僕が兄の立場になって、息子の運転免許証取得のためのサポートをすることに、、。
で、僕がまずやったのは、モトクロスの練習をさせること。バイクなら、しかるべき場所に行けば、年齢を問わずに運転できる。
それに、バイクで身につけた「身体感覚」は4輪の運転にも間違いなく役立つ。それを、僕は身をもって経験していたので、迷うことなくコトを進めた。
当時、埼玉県桶川市にあったホンダの「セーフティパーク埼玉」、通称「桶川/おけがわ」に通うことにしたのだ。
高校時代、共に2輪に狂っていた親友がオフロードバイクに興味を持ち、バイクトレーラーも所有していた。なので、それに便乗させてもらい、桶川通いを始めた。息子が小学校6年の時だったと思う。
そして、モトクロスコースへと場を移したのだが、そこでも順調にステップアップ。まもなく、バイクもホンダMTX125Rに替えた。
その後は、16歳で普通2輪免許を取ってホンダXL250Sに乗り、18歳で普通免許を取ってホンダCR-Xを初の愛車に、、ということになる。
自宅の庭や田んぼの畦道でゴソゴソやっていた僕とは天と地ほどの違いはあるが、まあ、これが時代の流れというものだろう。
ここからは普通免許証を取った後のことになる。、、まずやったのは、東京目黒の自宅から伊豆半島を1周して自宅に戻るコースを、息子1人で運転でさせること。免許取得後最初の週末だったかと思う。
むろん僕も同乗したが、運転に関してあれこれ指図したり指摘したりするようなことはほとんどなかった。ナビゲーターに徹して、リラックスして走れるようにするだけだった。
ほぼ1日掛かりのこの長距離ドライブ、、免許証取得後1週間も経っていない息子にはかなりきつかったと思う。でも、文句ひとつ言わずに走り切った。「危ない!」と思ったことも1度もなかった。
翌日も一緒に乗る機会があったが、明らかにリラックスしていた。余裕が出たというか、自信がついたというか、、周囲への目配り気配りも行き届いていたし、クルマの動きも滑らかだった。
免許を取った翌年の春には、ミュンヘンからベニスを往復する(往路復路は違うコース)ドライブの家族旅行をした。欧州での運転を経験しておいてほしかったからだ。
クルマはアウディ200クアトロ。ミュンヘン空港で受け取ってアウトバーンに乗り南に向かったが、最初のパーキングエリアで息子にステアリングを渡した。
この旅で僕と息子は半々くらいでステアリングを握った。弱気なことを口に出したのは、「フィレンツェで大きな200クアトロを走らせるのはきついよ」のひと言だけ。
狭く複雑な道路とガンガン突っ込んでくるクルマたち、、たしかにきつい。なので、フィレンツェだけはフィアット ウーノをレンタルした。途端に息子は元気を取り戻し、フィレンツェを楽しそうに走った。
最後の仕上げはカリフォルニア。LAからサンディエゴを往復するコースを、キャディラックで走った。アメリカをアメリカ車で走る経験も大切だと思ったからだ。
アウディ200クアトロで飛ばしたヨーロッパの旅とは対照的な、キャディラックでのカリフォルニアの旅、、とくに口には出さなかったが、とても楽しかったようだ。
僕が兄にしてもらったことを息子にも、、といった思いがそもそもの入り口だった。
だが、それをすることで、僕自身が大いに楽しむことにもなったし、大切な思い出を作ることにもなった。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。