2021.04.04
MINI クーパーの原点、ダウントン・ミニを知ってますか?
小さいのに存在感抜群な「MINI 1275クーパーS」。今でも人々を魅了し続けるその原点を振り返る。
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第156回
ダウントン・ミニ
4気筒エンジンを横置きして前輪を駆動することにも驚いた。ミニにはサイズを超えたインパクトがありオーラがあった。1956年のスエズ動乱が招いたオイルショック。そんな危機への対応から生み出された「極めて経済的な」4人乗り小型車、、、。
メーカーが時代の求めに応じたクルマを作るのは当然。だが、ミニの生みの親、アレック・イシゴニスが出した答えはすごかった。それは「革新」を超えた「革命!」だった。その革命は大衆に歓迎されるだけでは終わらない懐の深いものだった。ゆえに、「あるモデル」の登場を機に、世界中の幅広いクルマ愛好家にまで歓迎の輪、、というより熱狂の輪は広がっていった。
ちなみに、幅広いとは、スポーツカー好きからロールスロイス愛好家まで、、、といった意味であり、「あるモデル」とはいうまでもなく「クーパー」の冠が付くモデルを指す。
「クーパー」は「ジョン・クーパー」の名を冠したもの。1959年と60年、F1コンストラクターズ・チャンピオンを獲得した「クーパー・カー・カンパニー」を率い、レースカーのエンジンを「ミッドシップ・マウント」するという革命を起こした人物だ。現在のミニでもっともホットなモデルである、「ジョン・クーパー・ワークス」の名の由来もここにある。
ところで、ダニエル・リッチモンドの名をご存知だろうか。ミニ好きなら「1275クーパーSを誕生させた立役者」と答えるだろう。そう、ミニに積まれるBMC・A型エンジンの排気量は1071ccが限界とされていた。だが、ダニエル・リッチモンドが「ボアピッチをずらして拡大する方法」を提案。1275cc が実現したということだ。
ダニエル・リッチモンドは、英国のチューニングショップ、「ダウントン・エンジニアリング」の創設者だが、BMC系(オースチン、MG、モーリス)のチューニングで大きな実績をもつ。ツーリングカーやラリーでのミニの勝利も、ダウントン・エンジニアリングの関わりが大きかったことは知る人ぞ知る、だ。
世界を熱狂させた「クーパー1275S」という名車の誕生には、アレック・イシゴニス、ジョン・クーパー、ダニエル・リッチモンドという「自動車史に残る偉人3人」が関わっていたのである。ちなみに、ダウントン・エンジニアリングはリッチモンドの死後一時幕を下ろした。だが、1993年から再開しているとのこと。ビンテージミニのレストアとチューニングが「売り」と聞いている。当然だろう。
ダウントンの取材は、ロンドンに着いた時ふと思いついたこと。事前の約束はなにもなかった。ロンドンで番号を調べて電話した。ろくに英語もできないのに、、、。若さ(バカさ、、!?)のエネルギーはすごい。
でも、ダウントンは快く対応してくれた。旅の途中なので時間的にも選択肢は少なかったと思うのだが、訪問を受け容れてくれた。単なる訪問取材だけではなく、「ダウントン・ミニに乗りたい」という厚かましいお願いにも「イエス」と言ってくれた。
「”ドライバー”という日本の自動車誌の編集者」と名乗ったからだろう。ドライバー誌を知っていたかどうかはわからないが、、、。
余談だが、僕はロンドンの足にバンデン・プラ・プリンセス(ADO16)を借りていた。ソールズベリーもそれで行った。小さなロールスロイスといわれたバンデン・プラ・プリンセス、、、今で言う「バックパッカーの旅人」だった僕に相応しいとはとても言えない。でも、乗りたかったので、これまた図々しく広報車を借りだした。
むろん、安いホテルに泊まっていたが、バンデン・プラ・プリンセスがもっとも分不相応に感じたのはホテルの駐車場。一台だけが「浮いて見えた」。人目があるときの乗り降りが恥ずかしかったことを覚えている。
ダウントン・エンジニアリングは、バックパッカーの僕を暖かく迎えてくれた。ミニやMGなどがチューニング作業をすすめる工場を案内してくれ、チューニングパーツの置き場も見せてくれた。詳細は覚えていないが、「ちょっと大きめの町工場」といった佇まい。そこで、いかにも職人風の人たちが黙々と作業をしていた、、、そんなことをなんとなく覚えている。
チューニングパーツの置き場では、複雑な形状のエキゾーストパイプがズラリと並べられていた光景が印象的だった。
当時のハイチューンのエンジンには気難しい性格のものが多かった。始動するにも「儀式的手順」を踏まなければならないものも多かった。90ps以上!?のパワーを引き出しているとされていたダウントン・1275クーパーSも、当然そうなんだろうと思っていた。でも、違った。
すでに工場の前に置かれていたクルマを、なんの説明もなく、ただ「楽しんで!」と笑顔で引き渡されただけだったが、それで十分だった。エンジンは難なく始動した。クラッチが重かったかどうか、、その辺りも定かではないが、ネガティブな記憶はまったくない。すべてが扱いやすかったという記憶しかない。
走りは強烈。身震いするほど速かった。1速、2速でレブリミットに達するのはアッという間。3速ではほんの一瞬ひと息つけたが、加速はほとんど落ちなかった。そして4速で最高速度に、、、短時間で達した。1275 クーパーSの最高速度は、確か160km/hくらいだったと思うが、それよりも少し低かったように記憶している。
ファイナルを低くした「スプリント用?」の特殊なセッティングだったのかもしれない。担当者にスペック関係を聞いてみたのだが、答えはなかった。
でも、とにかく速く、さらにはフレキシビリティも高かった。ほとんどレーシングチューンに近いようなパワーと速さを示しながら、街中の走りもリラックスしてこなせた。「ダウントン・チューンの真髄ここにあり」だ。身のこなしも最高だった。1275クーパーSに与えられた「ゴーカートフィーリングの原点はダウントン・ミニにあり」といって間違いはないだろう。
一時代を築いた1275クーパーSの原点に直接触れられたダウントン・エンジニアリングへの訪問は、最高の、そして自慢の思い出だ。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。