イラスト/溝呂木 陽
もう一辺倒だった。
欧州車に少しずつ目が向き始めたのは高校も半ばを過ぎた辺りから。アメリカ人のバイク仲間のツテで手に入れたアメリカの雑誌を見るようになってからだ。
1950年代はアメリカ車の全盛期。だが、アメリカの雑誌には欧州車の写真や記事がよく載っていた。とくに、ジャガー、オースティンヒーレー、MG、トライアンフといった「ブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツカー」の記事が多かった。
大戦後、駐留していた多くの米軍兵士たちが、欧州スポーツカーの魅力に惹きつけられたことが源流らしい。そして彼らは、それを欧州で買い、アメリカに持ち帰ったという。
1950年代から60年代にかけてのブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツカーはカッコよかった。今も多くの熱心なファンがいるのは当然のことだと思う。
そんな中で、僕がとくに惹かれたのはMGA。
それもMK1 だ。1500ccのエンジンは情けないほど非力だったが、ルックスは最高! エレガントなルックス/佇まいに、僕は年上の美しい女性を見るような想いを抱いた。
陳腐な表現かもしれないが「MGAに恋をした!」といったことになるだろう。
時は1962年。輸入車、とくに「MGA MK1」で、ボディカラーは「イングリッシュホワイト」、さらに「可能な限り安価で」となると、ターゲットは文字通りのピンポイント。
だが、幸いにも岡崎家は「外車好き」で、いわゆる「外車ブローカー」なる人たちが複数出入りしていた。つまり輸入車売買の仲介業者である。怪しげな人もいたが、クルマ好きで気が合う人に「MGA探し」を頼んだ。
さすがはプロ。短い時間で3台の候補車を見つけてきた。でも、1台はボディが赤だったので即脱落。後の2台は白だったが、1台は年式が新しく価格的に手が出ない。残る1台に絞って、実車を見に行き、ちょこっとだけだが試乗もさせてもらった。上々とはいえないが、「ノー」という特別の難点もなかった。
で、価格だが「104万円」。大卒の初任給が2万円に届いていない頃の話しだ。前にヒルマン・ミンクスを売って儲けた話しをしたが、その後のクルマだったので、40万円の原資は手元にあった。残る64万円をどうするか!
僕も家内も学生だから、貯金なんかゼロ。
家内は家業の手伝いをして小遣い程度は稼いでいた。僕も学校が終わると、日比谷、宝塚劇場の前にあったフルーツパーラーでバイトしていた。でも、そんな稼ぎなどなんの役にも立たない。ちなみに、今でもフルーツパフェなら、きれいに作れる自信はある。
そんな経済状態の僕だったが、MGAを手に入れた。64万円とその他諸々のお金をなんとか工面したことになる。いったいどうやって?
不思議なことに、そこがどうにも思い出せない。家内の?、 僕の?・・どちらかの親に借金したのか、共にかなり年上だった兄弟に借金したのか、僕を可愛がってくれた叔父に助けられたのか・・・まるで覚えていない。
記憶がポッカリ抜け落ちている。加えて、その多額な借金をどうやって返済したのかも。
まか不思議な話しだが、とにかく僕はMGAを手に入れ、年上の美しい女性との恋を実らせた。超ハッピーだった。
とはいえ、毎夜10時まで、時給250円くらい?のバイトをしながらMGAを買うという行為、どうにもマトモではない。でも、それをやった、あるいはやれてしまったことは、ラッキーだったんだなと、つくづく思う。
MGA以後も、好きなクルマの無理無茶買い癖が収まることはなかった。クルマ以外には旅にもお金を使った。家内と世界中を旅した。だから、わりに最近まで、貯金通帳残高はずーっと超低空飛行が続いた。でも、その分楽しんだ! よかったなぁと思う!
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。