イラスト/溝呂木 陽
2002年のワールドカップ日本大会で、にわかサッカーファンが大騒ぎし、中田英寿らが一躍ヒーローになった状況とよく似ている。ちなみに、僕もそんな中の一人だったが、以後、熱心なサッカーファンであり続けている。
日本グランプリを境にスポーツカー人気は急上昇した。スポーツカー・オーナーは、クルマ好きからだけでなく、多くの人たちから羨望の目を向けられた。一種のヒーロー扱いだ。
そんな人たちが、日本グランプリを境に夜な夜な集まるようになった場所があった。もちろん愛車と共に。週末が中心だが、平日でもそこそこ集まった。ジャガー、ポルシェ、トライアンフ、MG・・・といったクルマたちだ。
チューニングアップした国産車も加わっていた。エアロパーツなどない時代だが、低い車高、太いテールパイプ、エンジン音、キャップを外したホイール等ですぐそれとわかった。ゼッケンナンバーを張ったクルマもあった。
日本グランプリに出場したドライバーたちの顔もあった。当時の僕はMGBに乗っていたので、違和感なく仲間に入れた。ちなみに、大借金の末に手に入れたMGA MK1だが、あまりにもパワーがないことにガマンならず、早々にMGBに乗り換えた。
当時の赤坂は、伝統の花街の粋な佇まいに加えて、新しいホテル、レストラン、クラブ等も多い人気スポットだった。スポーツカーが集う場所としては文句なしだ。
集うと言っても、大通りでもないし広場でもないので、できるだけ道の端に寄せて駐めた。店への出入りを邪魔しないようにも気を配った。みんなの暗黙の約束事だった。
華やかなスポーツカーが店の前に並ぶのは、店にとっても悪くなかったようで、ルールを守り、マナーを守る限り、文句はでなかった。スポーツカーが整然と並ぶ、赤坂一ツ木通り・・・いい眺めだった、と今も思う。
TBS出演者にもクルマ好きは多く、声をかけられ、話し込むこともよくあった。有名な俳優さん女優さんもいた。
集う仲間には「その筋の人」もいたが、他愛ないクルマ話しに一切壁はない。「なんかあったら俺に言ってこい。話しつけてやるからな!」との有り難い言葉はもらったが。
こんな場所での集まりは、今なら、間違いなく取り締まりの対象になる。が、当時は警察も鷹揚だった。巡回の警察官も立ち話に加わったり、運転席に乗り込んだりして、一緒に盛り上がっていた。
「TBSの前にスポーツカーが・・・」という話しは、いつのまにか広まり、週末などは見学者も集まるようになった。顔の知られたドライバーはサインを求められたりもした。僕たちは、そんな「サポーター?」とも仲良くなった。運転席に乗せてあげるだけで、すごく喜んでくれた。
赤坂だけではなく、日本のあちこちでこうした集まりはあったのだと思う。そして、自動車ファンは増え、多くの人たちの自動車への夢が膨らんでいったのだろう。
こうしたことひとつとってみても、第1回日本グランプリが、日本のモータリゼーションに与えた影響は大きかったと思う。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。