2017.12.15

1964年、初めてのLA

約50年前の海外ひとり旅で訪れたロサンゼルス。そこには優しさに溢れた人々との出会いがあった。

CREDIT :

文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽

初めての海外旅行は1964年。2ヶ月ほどでLA、NY、パリ、ローマ、ロンドンを回ったが、今日の話しはLAに絞る。
 
むろん貧乏旅行。今で言うバックパッカー・スタイルの旅だった。ちなみに、背負っていったのは、バックパックではなく、大きなズダ袋。アメ横で買った米軍放出品だ。
 
当時はまだアメリカ西海岸への直行便はなく、ハワイ経由で飛んだ。当時のホノルル空港は小さな小屋風の建物がポツリポツリと点在するだけ。出入国手続きを行うメインの建物でさえ、ローカル線の駅舎といった風情だった。
 
LA到着は夜。迎えに来た友人(日本人)のシボレー・インパラで初日の宿へ。
 
空港からすぐフリーウェイに乗ったが、まずは片側4〜6車線をビッシリ埋めるクルマの流れに圧倒され、呆然とさせられた。
 
宿はオリンピック大通りに面したモーテル。映画や雑誌で見たのと同じだった。無愛想なおじさんがカギを渡してくれたのもイメージ通り。部屋にはシャワーしかなかったが、[モーテルでシャワーを浴びる]という行為がまた、「アメリカに来たんだ!」という実感を後押しした。すべてに反応し、興奮した。
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翌日からは一人。まずは近くのレンタカー屋でクルマを借りた。大奮発してマスタングを。
V8のコンバーチブルがベストだが、それは無理。いちばん安い6気筒のクーペにした。
それでも憧れのマスタングにかわりはない。
 
アメリカ車の運転には慣れていた。マスタングにもすぐ馴染んだ。初めての右側通行にも戸惑うことはなかった。窓は全開。3角窓のフレームに左手を掛け、右手だけでハンドルを回した。大きく回すときは掌の腹でクルクル回す。映画で覚えたアメリカ車運転術だ。
 
当時のLAにほとんど渋滞はなかった。通勤/帰宅時にたまに、くらいだ。だから人々の運転も穏やかだった。クラクションを聞くことなど希だ。道路も広いし、わかりやすい。地図を持っていればどこへでも簡単に行けた。
 
二日目からは、友人が住むヴェニス地区に近いサンタモニカに移った。ビーチ沿いのモーテル。カーテンを開けると白い砂のビーチと海が、そして、ピアが見えた!!
 
友人からサンタモニカに住むアメリカ人女性を紹介された。50才前後?の独身で名はエレイン。ご主人は数年前に亡くなられたと聞いたが、NASAの技師だったとのこと。
 
エレインの家は僕のモーテルのすぐ近くだった。優しくて、面倒見のいい女性。英語のできない僕によく声を掛けてくれた。ランチ、ディナー、パーティ、ピクニック・・・その度に新しい知り合いがどんどん増えた。
 
サンタモニカは開放的な街で、人々も明るくて親切で開放的。「日本から来たばかりのバックパッカー」といった負い目を感じさせられることはまるでなかった。
 
数日後には、知り合ったばかりの若い男性から「俺の家に泊まれよ」と誘われた。一緒にいたガールフレンドも、「そうしなさいよ。モーテル代もったいないから・・・」と。
 
そこであっさり「誘いに甘えてしまう」僕も図々しいが、ソファーベッドながら1部屋自由に使わせてくれたのだから最高。カギもくれたから、僕は文字通り自由に出入りできた。
 
朝から夜中までほとんど出ずっぱりで、寝に帰るだけの毎日だったので、彼も気楽だったのだろう。数日後には「ずっといてもいいよ」と言ってくれた。
 
で、再びあっさり、誘いに甘えてしまった。
2週間ほど居座ってモーテルに戻ったが、その間のモーテル代が浮いたのは大きかった。これで、LAには予定より2週間長く居座ることにした。
 
ただ、困ったことがひとつだけあった。僕の部屋から洗面所に行くには、彼の寝室を通らなければならない。彼一人ならいいが、ガールフレンドが泊まっているときは通れない。
 
ので、どうにもガマンできないときは窓から外に出た。誰かに見つかりでもしたら騒ぎになっただろうが、幸いにも厄介なことはおこらなかった。ついていた。
 
昼も夜もマスタングで走り回り、週に2回くらいは夜のパーティに参加。週末はいろいろな人たちとグリフィスパークでピクニック。
文字通り「夢のような日々」を過ごした。
 
いちばん多かった食事は、小さなフードスタンドでのホットドッグの立ち食い。飲み物は今は好きじゃないけど、当時は大好きだったコーク。贅沢品だった?マックはたまにだけ。


結局、LAには4週間いたが、あっという間に過ぎた。初めての海外旅行なのに、嫌なことも困ったこともまるでなかったし、毎日がワクワク、ハッピーの連続だった。
 
夢の中で虜になっていたLAは、現実でも僕を虜にした。底抜けに明るい空、青い海、涼やかな風、白いビーチ・・・も、虜になった理由だが、いちばん大きかったのは、サンタモニカで出会った人々。
 
50年前の「僕のLA」は、明るくて、大らかで、自由で、初めての旅人をも、超のつく優しさで包み込んでくれたのだ。

●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト

1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。

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