2018.01.12
ワークス・スカイラインでラリー参戦
ラリー参戦が趣味でもあった著者が、ワークス・ドライバーとして参戦したのはただ一回。いまはなき「プリンス自動車」のスカイライン・スーパーで。その結果やいかに…?
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
だから、ラリー参戦といっても、クルマは普段使いのもの。前にも触れたが、父親のクルマだったり友人のクルマだったり、、だった。
で、戦績はよかった。けっこう上位に食い込んでいたし、優勝もした。もちろん、僕はドライバーとしての参戦だ。
そんなある日、突然、プリンスから電話が入った。「ラリーの件で、ご相談したいことがあるので当社まで来ていただけませんか」といった内容だった。
プリンス・・・1966年に日産と合併する前の「プリンス自動車」のことだが、電話を受けたのは1963年だったと思う。小さいメーカーだったが、カッコいいクルマを作っていたので、人気があった。
「ラリーの件でご相談」の話しに戻るが、内容はほぼ予想(期待をも込めての予想だが)できた。「ラリーでウチのクルマに乗りませんか?」とのお誘いだろうと思った。
予想通りだった。「ウチの提供するスカイラインでラリーに出て欲しい」とのこと、、最高の気分だった!「やった〜!」と思った。
「とりあえずは1戦だけ。契約金もなし」との内容にはちょっとガッカリした。でも、あれこれいえる実績の積み重ねもないし、1戦でもワークスカーに乗せてもらえるだけでラッキーとしなくてはならない。当然、僕は条件を受け容れた。
クルマは「スカイライン・スーパー」。エンジンは1.9ℓの4気筒で、カタログ上のパワースペックは91ps /15.0kgmだった。当時としては悪くないスペックだ。
破けそうなシャツやパンツに当て布を縫い付ける・・・ま、そんな感じの補強に見えた。
本来はまず軽くすることが筆頭要件だが、当時のプリンス、いや日本の自動車メーカーには、そんな経験も意識も技術もなかった。そうしたことに強く目を向け、動き始めたのは第1回日本GP以降のことだ。
ワークス仕立てのスカイラインに乗ってまず感じたのは、「重い」、「パワーがない」、「ブレーキが弱い」の3点。「OK! 」だと思えたのは頑丈さだけ。かなりショックだった。
でも、これで走るしかない。
案の定、ラリーでも速いアベレージは出せなかった。とくに、きつかったのはブレーキ。
パッドはそれなりのものに変えていたが、重量増もあってか、とにかく「効かない!」。
「このくらい減速するはず」「停まるはず」の予測はことごとく大ハズレで、初めは混乱と困惑の極みだった。とくに、路面が微妙に変化する砂利道でのブレーキ感覚を掴むのが難しかった。ターンすべきコーナーの手前で思ったように減速できないことが重なった。
僕の「ワークス・ドライバー」経験は1度で終わった。もともと、遊び、趣味の範囲を超えてラリーをやる気はなかっただけに、それほど悔しさはなかった。ただ、大きな期待をもって乗ったクルマが、まったく期待はずれだったことは非常に残念だった。
プリンスは1964年にスカイラインGTを生みだし、第2回日本GPでセンセーショナルなデビューを果たした。そして、日産との合併後も、スカイラインは日本のモータリゼーションを牽引する重要な役割を担い続けた。
僕のスカイラインは弱かった。でも、創世記の日本モータースポーツ界を盛り上げた強いスカイライン・・・その名の物語のほんのひと隅に、僕の思い出がひっかかっていることだけでも、なんとなく嬉しいし、誇らしい。
●岡崎宏司/自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。