2021.06.02
まるでお祭り!? 人が集まる「国際ラリー」での出来事
約45年前のこと、ロンドン~シドニーの約3万キロにも及ぶ国際ラリーの思い出は、恐怖だったと振り返る筆者。それを乗り越えるために思いついた名案とは?
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第160回
44年前の中東~インド、恐怖の思い出
このラリーへの参戦記は前にも書いた。サポートのないプライベートチームには「異常なほどの“耐久力” 、“持久力”が試される」そんなことが前回の話の中心だったが、今回は「恐怖の思い出」について書く。
ラリーの大雑把な内容だが、ロンドンからシンガポールまでが17000km。パースからシドニーまでをW字状に走るオーストラリア・セクションが13000kmの計30000km。
前半は1200~1300km/日、後半は2200km/日を走るスケジュール。とくに、容易に道に迷ってしまうような砂漠が中心の後半はきつかった。
カンガルーとの衝突でフロントウィンドウを失い、2本のタイヤがほぼ同時にバースト、ゴールへの道のりは険しかった。でも、なんとか耐えきり、走り切った。
「順調に走っていれば、、」との悔しさは当然あったが、総合19位、クラス4位、、ロンドンをスタートしたのが80台だから、まぁ、頑張ったといっていいだろう。
恐怖はイスタンブール/トルコから始まり、テヘラン/イラン、カブール/アフガニスタン、ラホール/パキスタン、デリー、ムンバイ、チェンナイ/インドまで続いた。
ロンドンからスタート。フェリーでアムステルダムへ渡った。そこから欧州セクションは始まったが、アテネ/ギリシャまでは淡々と進んだ。
ただし、タフなスケジュールに身体が慣れていないので、「睡魔」との戦いは厳しかった。事故も起き、死傷者も出た。我々もヒヤッとしたことはあったが乗り切れた。
そして、トルコに入ったのだが、クルマも少なく、ストレスを感じることはあまりなかったのだが、イスタンブールに近づくにつれて状況は一変した。
平野の中を淡々と伸びる片側1車線のハイウェイは、加速度的に混雑度を増していった。さらには遅いクルマと速いクルマが、ルール無視(よそ者にはそう見えた)で入り乱れるようにも。
それまでほとんど出会わなかった高年式の乗用車も増え、それらがわが物顔で突っ走る。とくに怖いのは追い越しだ。無謀としか言いようのない追い越しを平然とやる。
片側1車線だから、追い越しは当然対向車線に出るが、その出方がすごい。対向車線のクルマが急ブレーキを踏んで避ける、、といったような追い越しさえ珍しくない。追い越して元の車線に戻るときも「間一髪!」状態が少なくない。幸か不幸か事故は見なかったが、これは怖かった。
イスタンブール市内でも常識では測れない動きをするクルマを多く見たが、渋滞で全体の速度が遅いため、さほど怖さはなかった。後で聞いた話だが、上記した「怖い道路」での死傷者は、外国からの訪問者が圧倒的に多いとのこと。納得だった。
トルコに次ぐイランでは、あまり強く記憶に残っていることはない。アジアハイウェイを中心にしたルート構成だったと思うが、淡々と走り抜けた。テヘランも通ったが、恐怖を感じるような混雑にも出会わなかった。
国境ではむき出しの拳銃を見せながら、「ここからは危険だから銃は必要だよ」と売りに来た。「銃は使えないから……」と丁重に断ったが、これも怖かった。
アジアハイウェイが主なコースだったが、沿道には、たしか、2キロほどの間隔で銃を持った監視兵が立つという物々しさ。とくに夜間、漆黒の闇の中に立つ監視兵の姿はけっこう怖い眺めだった。
アフガニスタンはクルマも少なく、町も少ない。いちばんきつかったのは眠気との戦いだった、、が、首都カブールに入ると眠気は一気に吹き飛んだ。ラリー車は珍しいからだろう。多くの人達が集まり取り囲もうとする、、と、そこに警官が走り寄ってきて追い払う。
それは有り難かったが、追い払い方がすごい。長い革の鞭を振りながら追い払うのだ。ビューンと音が聞こえるほど強く。当たった人は飛び上がるような仕草を見せたり、うずくまってしまったりしたが、かなり痛いのだろう。
カブールではひときわ立派なアメリカ資本系ホテル(たしか、コンチネンタルだったかと思う)に泊まったが、久しぶりに寛げた。
アフガニスタン最後の行程は、パキスタンとをつなぐカイバル峠越え。古くからの交通の要衝であり難所だが、通ったのは夜間。闇の中、ここにも数キロおきに銃を携えた監視兵が立っていた。「夜は山賊が出る」といった話も聞いていたが、そんな話がとてもリアルに感じられる不気味さだった。
現在のインドの人口は13億人とも言われるが、デリーを中心にした大都市の人口密度はすごいのひと言だ。「クルマとバイクと人が道路を共有している?」のにも驚いた。
デリーでは一泊。中心地の街中のホテルだったが、人の多さは、ホテルの窓から見ているだけで息苦しくなるほど。結局、ホテルからは出ず、身体を休めることに専念した。
翌朝は、全車が車両デポから隊列を組んでスタート。前後に警察のパトロールカーが付いたが、取り囲む大群衆の中、這うようなスピードでしか進めなかった。
ボンネットを、トランクを、窓ガラスを、、多くの手で触られ、叩かれながら、、。中には、ボンネットに乗るもの、クルマの上を八艘飛びのように飛び渡るツワモノもいた。
警備の警官はいるものの多勢に無勢。黙って見守るしかない。ほんとうに怖かった。その後の給油ストップで気づいたのだが、何枚かのスポンサー・ステッカーが剥ぎ取られていたのには驚いた。ゼッケンが被害にあったクルマもあった。
都市部だけではなく、田舎の村落でもまた群衆に悩まされ、恐怖を抱かされた。村落の入り口付近では静かで、人気はほとんど感じられない。だが、中に入ると、、「一体どこから!?」と驚かされるほどの人がラリー車目指して駆け寄ってくる。
文字通り「湧き出てくる!」ように人が集まり、あっという間に十重二十重状態になってしまうのだ。そして、クルマを、窓を叩く。多くの人たちにとって、「国際ラリー」はめったにはない「お祭り」のようなものだったのかもしれない。
誰が、どこのチームが言い出したかは忘れたが、そんな難局を乗り切るために考えだされた妙案があった。「前後の5台が一組になって、左右のドアを半開き状態で支えながら走り抜ける」という案だ。
車幅が倍近くになったクルマが5台連なって走れば威圧感は大きく増す。加えて、仮に人が接触しても、ドアの調整で大事に至らずに済むだろうということだが、、この作戦は大成功だった。
44年前の中東~インドの走破はほんとうに厳しかった。ラリーでなければまた違った印象だったかもしれないが、、2度とはできない体験をした。その後、政情不安で走れない国も出た。アフガニスタンはその典型だ。そう考えると、「すごい体験をしたものだ!」とつくづく思う。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。