2018.06.08
フロンテ360、名神を24時間全開!
高速道路開通以降、自動車業界でのパワー競争は熾烈なものに。そこでスズキから筆者に提案されたのは、名神高速道路を24時間、できる限り全開で走り続けることであった。
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
サニー1000と同じく『ドライバー』誌の企画で、運転したのは僕と同僚編集者の二人。
名神高速道路が全通したのは1965年。フロンテ360で24時間走り続けたのは1967年。いずれにしても半世紀前の話しだ。
高速道路の開通は当然、クルマの高性能化を後押しし、パワー競争を煽った。軽自動車も例外ではいられなかった。
1967年にデビューしたホンダN360の31psが火付け役になり、ユーザーはハイパワーを求めるようになった。
初代フロンテは21psだったが、67年の2代目は25psにアップ。気筒数も2気筒から3気筒へ。さらにはN360に合わせた31psモデルも追加された。
「名神24時間連続走行」企画にスズキがすぐGOサインを出してきたのも、激しいパワー競争、性能競争の流れの中、自分たちの実力を世に客観的に示す面白い企画と判断したからだろう。
ただノンストップで走るだけではなく、「できる限り全開で!」と付け加えたことも、スズキが乗ってきた理由だったはずだ。
名神高速道路。栗東ICと小牧IC間の距離は130kmほど。そこを何往復くらいしたのか、どのくらいの距離を走ったのか。残念ながら僕の手元に当時の記録はない。
ただ、給油ストップ以外は走り続けたこと、基本的に全開で走り続けたことは確かだ。
交通量も少なく、全開とはいってもせいぜい下りで120km/h出たかどうかといったレベルなので「飛ばした」といった印象はない。
すでに時効だから正直に告白するが、ともかく、取り締まりカメラもなかったし、覆面パトカーもいなかったし、気兼ねなく踏み続けられる環境だったわけだ。
フロンテはRRだし、高速安定性に不安はあったかもしれない。でも、当時の大方の日本車は高速で不安定だった。だから、たとえそうであっても、とくに不安感を抱いたりはしなかったはずだ。
スズキのエンジニアから「24時間踏み続けても大丈夫」とのお墨付きはもらっていたが、過去に2サイクル・エンジンで何度か経験した焼き付きがチラッと頭をよぎった。
しかし、そんな心配は杞憂だった。フロンテ360は全開で快調に走り続けた。最後まで。
全開で走ると当然燃費は悪くなる。その分給油回数は増える。でも「全開」に拘った。そこに、このテストのいちばん重要な意味があると考えていたからだ。
食べ物も飲み物もあらかじめ用意したものだけ。とにかくひたすら走り続けた。
二人とも一睡もしなかった。準備からスタートまで、ゴールしてから宿に着くまで…。諸々を加えると40時間くらいは寝なかっはず。でも、ケロリとしていた。若かった。
スズキは翌1968年、「フロンテSS」を発売。パワーは36psまで引き上げられた。排気量は356ccだから「リッター/100ps超」ということ。熾烈なパワー競争のもたらしたものだ。
そのフロンテSSのパフォーマンスを誇示するため、スズキはイタリアでイベントを行った。2輪レーシングライダーの伊藤光夫と、あのスターリング・モスにステアリングを托し、アウトストラーダを走らせた。
ミラノからナポリまでの約770kmを、平均速度122.4km/hで走り抜けたとされている。
僕たちのように、130km毎にICを出入りするロスのないことが、大きく平均速度を押し上げているのは間違いない。
給油をどうしたかはわからない。が、事実上の最高速度に近い平均速度で走っていることを考えると、かなり計画的で迅速な給油を行ったのだろう。
この記録を知ったとき、僕もドライバー編集部もぜんぜん驚かなかった。「われわれの24時間全開走行の方がタフだった」との思いが強かった。
上記のイタリアでのイベントも、僕たちの成功が伏線になっていたのかもしれない。いや、十分考えられる。
目醒めたのは18時間近く経ってから。よくもこんなに眠れたものだ。心配になった宿の人が、途中部屋に入って確かめたらしい。相棒も12時間くらい眠ったとのこと。
若い頃は仕事にしても遊びにしても、1日、2日の不眠不休は珍しくなかった。でも、これだけ眠り続けたことはない。いい想い出だ。
ハイウェイという退屈なルートを、退屈なスピードで、絶対にミスしないように…つまりは、肉体的というよりも精神的にそうとう疲れたのだろう。
フロンテ360は24時間全開走行を微塵の変調もみせずにこなした。日本の「軽」は、世界から小型車作りの最高のサンプルと見られているが、半世紀前から、すでにその資格はあったといっていい。
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。