2018.07.20
トスカーナの旅の記憶
20年ほど前、男性ファッション誌から"トスカーナ地方を旅する企画"を依頼された。その内容は海外旅行に慣れた筆者も興味をそそられるもので……?
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
夫婦での海外旅行など珍しくもないし、家内ともよく旅をしていたので、あまり気乗りはしなかった。
ところが、旅の中身を聞いたとたん、「行くよ、行く!」と即決した。
行く先がトスカーナ地方というのがまず気に入った。
トスカーナにはフィレンツェ、ピサ、シエナといった古都があり、薫り高い文化遺産が多く遺されている。でも、それで企画を受けたのではない。トスカーナの古都巡りは、すでに家族旅行で済ませていた。むろん何度繰り返しても飽きることはないが、雑誌企画の旅で名所旧跡巡りなど面白くない。
企画書には「トスカーナの旅」とは書かれていたが、古都にはまったく触れていなかった。トスカーナ地方は文化遺産だけでなく、自然の景観にも恵まれている。明るい陽射し、糸杉の連なる優しい丘稜、ブドウ畑、オリーブ畑……そこに身を置いているだけで心が晴れる。
そんなトスカーナを、ほとんどなにも決めず自由にのんびり旅をする。それがこの企画の主たる目的だったのだ。それは僕にとっても家内にとっても大好きな旅の形だった。
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なぜか厚焼き卵は得意で、家内より上手いと自負していた(今でもまだ自負している)が、それ以外料理らしい料理をやったことがなかった僕は、それでも躊躇することなく引き受けた。家内は大笑いしながら、「一晩だけならガマンするわ」と編集者に伝えたそうだ。
旅の計画を練る中でひとつだけお願いしたことがある。僕が料理する場所はシエナに近い田舎の農家の離れ家がイメージだと。“田舎の農家の離れ家”は、単に夢想的なもので、ただの思いつきだったのだが、“シエナの近く”というのは、夕食の後の時間をカンポ広場のカフェで過ごしたかったからだ。
予想通り、期待通り、トスカーナの旅は心地よいものだった。
もちろんクルマでの旅だが、飛ばす気になどまるでならなかった。季節はたしか初夏だったと思う。ハイウェイは避け、ほとんど一般道を走った。オリーブ畑やブドウ畑が連なりうねっているような丘稜地ではとくにスピードを落とし、窓を開けて走った。
旅の途中の宿も食事も行き当たりばったり。それがまた楽しかったし、ハズレもなかった。とくに食事はどこでも美味しかった。
昼前に着き、荷物を置くと、さっそく食材の調達のためにシエナの街へ。肉も野菜もパンもオリーブ油もワインも香辛料も、とにかく豊富だった。献立はビーフシチューと生ハムとサラダ。スタッフ3人を含めた5人分だから、かなりの量になるが、このメニューなら、大きな器に盛って、各自取り分けてもらえばいい。
シチューは虎の巻片手に。けっこう手間はかかるが手抜きはしなかった。肉も野菜もいいから大丈夫!!と励ましながら。農家の庭から摘んだ新鮮なオレガノを小皿に盛って添えたが、肉との相性はいいはずだ。サラダは、ひと口大に手でちぎってから洗う。しっかり水切りをしてから、ボウルに入れ、ラップして30分ほど冷蔵庫へ。これでシャキシャキになる。デザートはチーズにした。僕は癖のあるゴルゴンゾーラ辺りが好きなのだが、みんなが馴染みのあるだろうパルミジャーノにした。塊を買い、適当に崩して皿に盛った。
味はどうだったか……スタッフのみんなは褒めてくれた。ウソっぽい褒め方ではなかった(と思う)。そして、家内からは「家でもやってもらうわね」と怖ーいひと言が。テーブルの中央には一本のローソクを灯した。それは白熱灯の穏やかな灯りとともに、食卓を暖かく包んでくれた。食器洗いも僕の仕事になっていたが、これはみんなが手伝ってくれたのですぐ終わった。
そして、カンポ広場へ。かれこれ9時近かったと思うが、広場には多くの人たちが。カフェも空いている席は少なかった。
昼のカンポ広場もいいが、夜はさらにいい。ライトアップされた中世の栄華、深い夜空、優しい風、そこかしこから聞こえてくる楽しそうな笑い声。日常とはかけ離れた世界に身を置くことができた。
シエナへの旅は素晴らしかった!
僕の料理の腕も素晴らしかった!?……が、以後は厚焼き卵を数回作っただけで時は過ぎている。
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。