2018.10.05
ロンドン〜シドニーの3万kmラリー
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
海外の仕事が連続しても、時差に苦しめられることもない。翌日から普通に仕事ができる。
そんな僕が、肉体的にも精神的にも疲労困憊になったことがある。42日間で体重が10kg落ちた。しっかり絞れていた上での10kg減だ。
原因は1977年8月〜9月に行われた「ロンドン〜シドニー 3万kmラリー」だった。
クルーは、富士重工社員で、経験豊富なラリードライバーでもあった小関典幸さんと高岡祥郎さん。そして僕の3人。
僕の役割はサードドライバー、兼雑役、兼広報担当、といったところ。つまりなんでも屋だ。
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エンジンは市販車のまま。サスペンションもスポーツキット。それに追加照明、カンガルーバー、予備部品、スペアタイヤ4本、これでほぼすべてだ。
1977年8月17日。81台のラリー車はロンドン・コベントガーデンをスタートした。
ワークスチームは、長距離の王者、アンドリュー・コーワン擁するメルセデス、モンテカルロ優勝者、パディ・ホプカーク擁するシトロエン他、ポルシェ、レンジローバー、フィアットで計20台。全体の1/4を占める。
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欧州エリアでは時々SS(タイムトライアルなどのスペシャル・ステージ)があったが、基本は一般道を法規に従って走る。すごく単調。だから、睡魔との戦いがいちばんきつい。スタートして4~5日目に事故が急に増えたのも、身体が順応しきれず、疲れと眠さがピークにきていた人が多かったからだろう。死者もでた。
われわれにもきわどいシーンがあった。夜中にハイウェイを走っていたときのこと。僕は助手席にいたが、前を走る大型トラックに急激に近づいてゆく。僕は「危な〜い!」と大声で叫び、ドライバーは急ブレーキを踏んだ。
「前のトラック見えてなかったの?」と聞くと、「いや、見えてたんだけど…」との答え。目は開いていたのだが、脳はほぼ眠っていたのだ。
トルコ、イラン、アフガニスタン、インドといった国々では大混雑と無法運転に悩まされた。「マナーを守る」などなんの役にも立たない。むしろ危険を招く。
突っ込んできたクルマを弾き出す勢いでこっちが突っ込み、相手に引かせることが、もっとも安全確保に役立つ。
コース沿いには、1km毎に銃を構えた兵士が警備し、首都カブールでは、われわれに近づく地元民を警官が鞭を振るって追い払った。
インドで怖かったのは群衆。家もあまり見えないような田舎の町でも、いつの間にか群衆がラリー車を囲み、ガラスを叩いたり、屋根を叩いたり。屋根に飛び乗る者さえいた。
恐怖だった。そこで考え出したのが、左右ドアを開いて車両幅を大きくし、ぶつかりそうになったらドアを引いて調整するアイデア。
このアイデアは効果的だった。そして、よりリスクを少なくするため5台一組になり、速度も40〜50㎞を保つようにした。これでさらに効果は上がった。すごい体験だった。
ラリー車は、シンガポールからオーストラリア西端の町、パースに船で送られた。この間は休憩だが、遊ぶお金もないし、ただただ退屈だった。
戦いの本番はオーストラリア。ほとんど砂漠の中を走るのだが、距離は13000㎞。それをほぼ6日間で走る。1日平均で2200㎞だ。
とくに未開発な東半分の砂漠は困難だった。数百kmも町に出会わないのは珍しくないし、道路標識もほとんどない、地図も当てにならない。鉱物資源の埋蔵が多いせいか、磁石も当てにならない。
そんな状態で1日平均2200㎞を走る……未体験ゾーンの連続だった。ワークスは事前調査して正確なルートマップを作っていたはずだが、砂漠で道を失う恐怖は想像を超えていた。
僕は後席で地図を見ていたのだが、突然鈍いショックが起き、小関さんが悲鳴を上げた。
目線を地図から上げると、バンパーにぶつかりハネ上げられたカンガルーがフロンドガラスを突き破る瞬間だった。
カンガルーは小関さんの左肩に爪を立てるような形で胸の上に覆い被さった。剛毅な小関さんが「引きずり出してくれ〜」と叫んだ。
呆然としていた高岡さんと僕は、その叫びでわれに返り、慌ててカンガルーを引き出した。
ほとんど即死だったようだが、頭から血を流し、まだひくひくと痙攣していた。
小関さんは病院に寄るのを拒み、ガラスなしで走り切ろうとも考えたようだが、ガラスなしが無理なことはすぐわかった。
近くの町に行き、もっとも近い形の窓ガラスを買った。それをガムテープで押さえつけ、なんとかゴールまで走り切った。これが最後の試練だったが、ここも乗り越えた。
総合19位。4WDクラス4位。タイヤがほぼ1度に2本バースト。3ヶ所のコントロールポイントでタイムリミットに遅れたため、72時間のペナルティを食ったのが痛かった。でも、われわれはよく戦った。多くを耐え切った。
羽田に着いた僕のやつれきった姿を見て、家内は絶句したようだ。でも、僕は、疲れてはいたけれど、新たな自信で満ちていた。
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。