2019.02.05
天命を知り、ついに家業を継ぐ【vol.15】
シンガポールを拠点にアジアを巡るエンジェル投資家、加藤順彦ポールさん。この10年、東南アジアを中心に周る中で得た、投資の知識や処世術、そして関わるひととの熱いドラマを展開します。
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文/加藤順彦
1989年、人生観を変える出会いが
それまで僕が大阪で取り組んでいた学生企業「リョーマ」とは次元が異なり、同社は“会社”として日本一を目指す成長を掲げていました。その年の秋に設立された同社には、やがて日本中からダイヤルQ²に夢を見た海千山千が来るようになったのです。
その様を見て驚くと同時に、僕は一度、心に決めていた家業承継はどうも面白そうでないことに気づきました。金属・鋼材の加工と卸売業を営んでいた家業は従業員30名ほど。祖父が創業し当時はそれなりの規模の中小企業でした。親の期待に背くか否か、悩みに悩みました。で、その果てに宿命から逃げるように、1990年秋に上京。僕も真田さんと一緒に日本一を目指したい、と決めたのです。要するに僕はワクワクする方を選んだわけです。
自分に代わって、弟が家業を引き継ぐことに
それを知ってからというもの、年に一度は帰阪するようになりました。もっぱら両親に顔を見せるためだけでしたが。25歳で広告会社「日広」を起こして以降、16年ほど東京で営んでいましたが、大阪の得意先を作るのは乗り気になれず、支社も作らずじまい。シンガポールに移ってからも何度となく大阪ベンチャーへの投資の機会はあったものの、むしろ他の地域や東京のスタートアップよりも厳しい眼で診てしまったこともあって、参画が実現した会社はありませんでした。
いまにして思えば、好き勝手に自分のやりたいことに手を出した僕は、どこか無意識のうちに家業のアトツギになってくれた弟の目障りにならぬように慮っていたのです。僕の所為で彼の人生を変えてしまったのではないか、という呵責から。僕に比して社交的でも営業肌でもない弟が、右肩下がりの関西で、ベタベタの金属・鋼材の加工や卸売を継いでやっていくのはたいへんだろうと、どこかで感じていたと思います。
突然の事故で、天命を知る
翌5月、僕は喪なった弟の後任として「株式会社マルイチスチールセンター」の代表取締役に就きました。そして創業から足元までに至る轍を月日をかけ、初めて理解・把握・整理しました。以来、家業をいかにして次代に繋いでいくのか。このことが僕にとってこの先を生きていく最大の課題の一つになったのです。弟は生前、2010年に厳しい国内市場の冷え込みのなか、同業大手の三栄金属に鋼材の卸売及び加工業の譲渡をしていましたが、今なお大阪市此花区には大きな社有地と加工施設と資材倉庫が遺されています。
70年におよぶ実績と資産が活かせる新たな生業を、僕が接ぎ木することで次の世代が承継することを検討する価値のある事業へと再生して繋いでやろうと。思考と準備に励むことを決めて日々過ごすなか、2018年2月、己の講演会を聴講いただいた方との名刺のやり取りが、のちに閃いたアイデアと繋がったのです。先般より稼働しはじめた新領域、理美容用ハサミの中古買取りと研ぎ、修理の事業を通じて経済を大きくしていきたいと考えています。
指折り数えれば、日広→NIKKO(現GMO NIKKO)の経営から退いて10年半が経過していました。再び社長として事業に取り組むことも、家業のアトツギになることも、まったく考えてはいませんでしたが、これもまた星の巡り。天命と知り、ベンチャー型事業承継に取り組んでいく所存です。
● 加藤順彦ポール(事業家・LENSMODE PTE LTD)
ASEANで日本人の起業する事業に資本と経営の両面から参画するハンズオン型エンジェルを得意とする事業家。1967年生まれ。大阪府豊中市出身。関西学院大学在学中に株式会社リョーマの設立に参画。1992年、有限会社日広(現GMO NIKKO株式会社)を創業。2008年、NIKKOのGMOグループ傘下入りに伴い退任しシンガポールへ移住。2010年、シンガポール永住権取得。主な参画先にKAMARQ、AGRIBUDDY、ビットバンク、VoiStock等。近著『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』(ゴマブックス)。