2023.03.04
社会人になってからも、「親友」はできるのか!?
自分が若く、愚かだった時代に、バカな時間を共有した奴のことは、ずっと会っていなくても「友だち」だと思うのに、社会人になってから出会った人とは、どんなに親しくなっても「友だち」になれないと感じたことはないでしょうか。
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文/小田嶋 隆(コラムニスト)
友だちの友だちは他人。人と人とがいともたやすくつながってしまう、そんな世の中で、はたして友だちとは何だろう?
2022年6月に他界したコラムニストの小田嶋隆氏が、自ら代表作と明言していた小田嶋隆クラシックス3部作、第2弾『小田嶋隆の友達論』から一部抜粋、再構成してお届けします。(※本書は2015年に太田出版から刊行された『友だちリクエストの返事が来ない午後』を底本としています)

バカな時間を共有した人間こそ「友だち」
ただ、その、現在親しく付き合っている彼らを、私は、「友だち」であるというふうには考えていない。
親しみを感じないとか、好きじゃないということではない。好ましい人柄だと感じているからこそ行き来しているわけだし、何回か会ううちにはそれなりの親近感を抱いてもいる。
では、どうして彼らは友だちではないのか。
おそらく、バカな時間を共有していないからだ。
私の中では、「友だち」は、「愚行」とわかちがたく結びついている。
実際にはそんなに深い付き合いがなくても、古い知り合いの中には「友だち」がたくさんいる。
歌舞伎町でナンパをして、一緒にコワいお兄さんに追いかけられたエトウとは、大学卒業以来、30年以上会っていない。それでも、友だちだと思っている。
今でも、たぶん、顔を会わせれば、一瞬であの時代に戻ることができるはずだ。というのも、私たちは、後ろも見ずに百人町(東京・新宿)まで走り切るほどコワい思いを共有していたからだ。が、それもこれも、過ぎてしまえば、あんなに楽しかったことはない、といった調子で、記憶は粉飾される。かように、愚行は、決定的なものだ。だからこそ、若い時のバカは買ってでもしろと、賢そうな若者を見かける度に、私はそう言いたくなるのだ。彼らも、50歳を過ぎればわかる。男にとって本当にとりかえしがつかないのは、二度とバカなことができない年齢に到達してしまうことなのだ。
友だちは、私にとって、自分が若く、愚かだった時代を保存する密閉容器のようなものだ。その意味で、大人になってから、すっかり疎遠(そえん)になってしまっている人間でも、共通の愚行に関連付けられている名前は、私の脳内では、友だちというタグとともに呼び出されることになる。彼らは、いってみれば史料であり、私自身の過去そのものでもある。だからこそ、その懐かしさには、大量のエゴが含まれている。
対照的に、社会人になってから出会った人間は、どんなに親しく付き合っていても、最終的な部分で、やはり友だちにはなれない。
理由は、いくつかある。
なにより、社会人の交際には、利害が絡んでいる。相手が得意先の人間だったり、取引先の社員だったりする限りにおいて、彼我(ひが)の関係には、仕事がらみの匂いがつきまとう。これは、意外なほど大きな障壁になる。そういう意味で、仕事抜きで知り合うことができたら、もっと親密になれたかもしれないと思える相手を、誰もが、一人や二人、持っているのかもしれない。が、仕事を通じて知り合った人間同士が、仕事抜きの関係に戻ることは、おそらく、恋人が友だちに戻ること以上に困難なはずだ。
同僚とも無邪気には付き合えない
とはいえ、業界は、話の合う仲間の宝庫ではある。私自身、酒抜きで思うままに話ができる相手は、編集者やライターといった出版界の人間にほぼ限られる。同じ業界の人間は、興味の対象や経験において共通する部分が大きい。だから、くだくだしい背景説明抜きで直接話題の核心に踏み込むことができる。この簡略さは貴重だ。
別のいい方をするなら、大人になって、仕事漬けの暮らしをするようになった人間は、同じ業界の人間としか話ができにくくなるということだ。この傾向を成熟と呼ぶのか、人間性の歪曲(わいきょく)と呼ぶべきなのか、軽々に断定することはできない。いずれにせよ、われわれは、職業人としての経験を積めば積んだだけ、間口の狭い人間になる。これはどうしようもないことだ。
さて、それほど話が合うのなら、同業者の中に友だちができても良さそうなものなのだが、なぜなのか、これがなかなかそういう次第にはならない。同業者同士は、多くの場合、顔をそむけ合って握手するみたいな、奇妙な関係を形成するに至る。親しいのに打ち解けない。あるいは、話は弾むのに気を許すことができない。
どうしてだろうか。
思うに、「言葉」が邪魔をしている。
もう少し具体的にいえば、敬語で始まる関係は、友だちに着地しにくいということだ。
「忙しいってのは、翻訳すると、オレと会うのが面倒だということか?」
「お前が面倒くさい奴だという見方には賛成だけど、今回は本当に忙しいんだよ」
「そんなこと言うなよ。友だちだろ」
「友だちなら忙しさぐらいわかれよ」
と、この種の無遠慮な会話は、ガキの時代を共有した人間同士の間でないと不可能だ。
毎週のように電話をし、同じ仕事で頭を付き合わせ、さまざまな共同作業に従事している担当編集者との付き合いは、ある意味で、古い友だちよりも深い。
敬語で始まった関係は敬語から外に出られない
というよりも、そもそも、敬語というのは、「感情を抑制する」目的で発明されたもので、上下関係を孕(はら)む人間同士のやりとりを不必要に複雑化することを防ぐために、われわれは敬語を使っている。仕事上の関係も、できれば感情に搦め捕られない方がよい。だから、社会的な関係は、敬語を要請する。
互いの名前を呼び捨てで呼び合う関係(友だちということ)の方が、むしろ特殊な人間関係だと言い換えてもいい。
ひとつ不思議なのは、海外で知り合ったり、一緒に海外旅行をした人間とは、わりと簡単に「友だち」になれるということだ。無論、場所が海外であれ、1日や2日行動を共にしたぐらいのことで、いい大人が即座に友だちになるというものではない。が、外国語を使う環境下で知り合った人間とは、敬語を離れた、一種特別な関係ができあがる。と、少なくとも、双方の間には、現地にいる間は、擬似的な友人関係が形成されるものなのだ。
ついでに言えば、外国人の知り合いも、たやすく「友だち」になれる。言葉の壁が介在してなお、だ。このことはつまり、カタコトの英語で語り合う方が、敬語の日本語で交流する場合よりは距離が近いということなのかもしれない。
とにかく、外人さんが
「コール・ミー・ジョニー」
みたいな挨拶を交わしながら、握手をしている姿は、われわれから見て、実にうらやましい図だ。彼らは、年齢が10歳以上隔たっていても
「ヘイ、ポール」
「ハーイ、トム、ホワッツアップ?」
てな調子で対等に言葉を交わすことができる。
もちろん、フラットに語っているのは、言葉の上だけのことで、彼らには彼らなりの上下関係や緊張があるといえばあるのだろう。
が、それでも、敬語という距離調節言語を使わずに済んでいるだけでも、英語話者は、われわれに比べて友だちを作る上では有利な位置にいるはずなのだ。
「オレ」の私は本当のことを言っている気持ちに
少なくとも私は、一人称の主語として「オレ」という人称代名詞を使っている時は、自分が本当のことを言っている気持ちになる。
実際には、主語が「オレ」でも、遠慮している時は遠慮しているわけだし、「私」に語らせている時でも、本音を開陳しているケースがないわけではない。
が、解放感は、まるで違う。
もしかすると、方言を使う人たちは、自分のお国言葉に戻った時に同じような解放感を味わっているのかもしれない。とすると、明確な方言を持たない(東京方言が、かなりの部分、共通語に吸収されてしまっているという意味で)東京の人間は、その点で、不利なのかもしれない。
というよりも、私にとっては、子ども時代の言葉が自分のお国言葉になるわけで、ということはつまり、オレは故郷から追放されているのだろうか。
友を探し求めるものは不幸である。
というのは、忠実な友はただ彼自身のみなのであるから。
友を探し求めるものは、己自身に忠実な友たりえない。
by ヘンリー・D・ソロー
愛と勇気だけが友だちだったアンパンマンの孤独について考えたことがあるかね?
by 小田嶋隆
『小田嶋隆の友達論』
友だちがいるって本当はウソなんじゃないのか。
友だちの友だちは他人。
人と人とがいともたやすくつながってしまう、そんな世の中で、はたして友だちとは何だろう?
稀代のコラムニストが友だちについて考えに考えた!
真の友をもてないのはまったく惨めな孤独である。友人が無ければ世界は荒野に過ぎない。by フランシス・ベーコン
自分の住んでいる荒野をお花畑だと思い込むことができる人間だけが真の友を持つとができる。by 小田嶋隆
2022年6月に他界した著者が、自ら代表作と明言していた小田嶋隆クラシックス3部作、第2弾
小田嶋隆・著 イースト・プレス 1650円(税込)
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