しかし、まったくの素人にとって、いきなり闇雲に手を出すのはリスクが伴うのも事実。そこで、日本における現代アートギャラリストの第一人者である「ミヅマアートギャラリー」の三潴末雄(みづま・すえお)さんに取材。現代アートとはそもそも何なのか? という超ベーシックなお話からマーケットの仕組み、注目のアーティスト、蒐集のための実用的なアドバイスまで、全3部構成でお届けします。
旧来の目に優しい芸術に対し、現代アートの真髄は“脳で読む快感”
三潴 1945年以後の米国で生まれた作品を「Contemporary Art」、コンテンポラリー・アートと呼んでいます。歴史的な話をすると、マルセル・デュシャンという人が登場したことによって、それまでのアートの定義が大きく変わりました。彼が1917年にニューヨークで開催された独立芸術家協会の「ニューヨーク・アンデパンダン展」に出品しようとしたこの「泉」という作品が契機になりました。
── 便器ですよね……?
三潴 はい、男性用の小便の便器です。デュシャンは、フランスの写実主義の画家であるギュスターヴ・クールベの作品などのいわゆる古典絵画は、専ら個人の視覚的な対象物で、網膜つまり目に優しく、それらに奉仕するアートであると主張したんです。網膜的に奉仕をするというのは、ただ美を追求するものであるという意味です。
アートとは作家の頭で考えられた思想や概念であり、鑑賞者に問題提起をするもの、という考え方が主流になった。これが基本的に今の現代アートの流れの主流であって、何かを提案するようなものという意図を汲み、コンセプチュアル・アートとも呼ばれています。
三潴 大きな物議を呼んで、デュシャンの「泉」はアンデパンダン展への出品を拒絶されました。これは工業用製品のレディメイドだからアートではないだろう、という喧々諤々の大論争が起きたのですが、それこそデュシャンが仕掛けたコンセプチュアル・アートだったんです。
── コンセプトと思想があれば何でもアートになり得るのですか?
三潴 もちろんデュシャンがこういうことを言っても、全員が全員それを踏襲しているわけじゃなくて、アートはエンタテインメントだから、みんなが喜ぶような、分かりやすいものを作ろうというスタンスの人もいるけれど、根底はそこにあります。
最近の例でいうと、マウリツィオ・カテランという作家が2019年、「バーゼル・マイアミアートフェア」でペロタンというギャラリーのブースで、バナナをガムテープで貼りつけた「Comedian」という作品を発表しました。ただのバナナで、しかもお客さんがそれ剥がして食べちゃったりもしたのだけれど、ギャラリーのスタッフが果物屋さんに行ってバナナを買ってきて、また貼り付けました。
三潴 カテランが提案したコンセプチュアルなアート作品が1枚のシートに記録され、本人がサインをしたうえで、コンセプトとしてコレクションされるんです。だから、たとえば私の画廊で勝手に再現しても、20万ドルにはならない。その記録に基づいて、作家が指示する通りのやり方でディスプレイして、なおかつ証明書があれば、その人の作品として価値を持つというルールなんですよ。でも実はカテランよりも、さらにデュシャンよりもずっと前に、日本でも同じようなことを行っていた人がいたんです。誰だか分かりますか?
利休がしたことは現代アートの基本にも通じる
三潴 千利休です。彼は将軍や大名、富豪の商人たちに対して、朝鮮半島の村々の家庭でふだん使われていた井戸茶碗というお茶碗が美しいと主張した。しかも欠けて金継ぎされたものはもっと美しいと。また呂宋(ルソン)壺という、南蛮貿易の船員が使った小便用の壺を素晴らしい美の器だといって、何万両という価値をつけて大名たちに売ったりしたのです。
これは利休の美に対する考え方であって、この茶道の大家が言うことによる価値観みたいなものを、みんなが受け入れたということを意味します。小便の壺が何万両にもなったように、カテランのバナナにも付加価値がついたわけですね。要するにアートの価値は、実のところ付加価値によって成り立っていき、最初に誰が考え、表現したのかが評価されるんです。それが今の最先端の評価基準であり、現代アートの価値の基本にもなります。
三潴 アーティストが、これがアートだと主張し、そこにサインがされていたり、アートであることの考え方や思想があって、はじめて作品として成立しますが、普遍性が求められます。現代アートの価値とは、非常にセンシティブで曖昧でフラジャイルなものかもしれませんね。
2018年にロンドンのサザビーズにバンクシーの作品が出品された時、それが約1億5000万円で落札された瞬間、公衆の面前で突然ガガガ~っと切り裂かれていきました。みんな何が起きているんだって、本当にびっくりしていました。実のところは額縁にシュレッダーが仕掛けられていて、本当は全部刻んで終了する予定でしたが、シュレッダーが半分ぐらいでストップしてしまったので、作品の上半分が残った状態になったのです。
当然、落札した人も困惑したけれど、このニュースがインターネットで世界中に配信され注目を集めて、ロンドンのオークション会場に展示されました。物凄く多くの人が列を成して観にやって来ました。だからこの作品は1億5000万円で落札されたのですが、それ以上の付加価値を得ることになりました。バンクシーにしてみれば、そんな悪ふざけのような仕掛けをすることによって、オークションで売られているような高いものには価値がないのだ、ということを批判したかったんだろうけれど、アートマーケットはもっとしたたかで、さらに価値を高めてしまったということになりました。
三潴 見掛けはハプニング、中身はパフォーマンスアートでしたね。アート作品はスタジオで制作されて完成となるわけではありません。岡本太郎は、作品というのは美術館やギャラリーで展示されて、その作品を見たオーディエンスの脳髄に“嵐”を起こし、その波動を受けて「おっ!」と思うような瞬間に初めて完成される、というようなことを言っています。
作品が持っている力というのは、人々のある種のエモーショナルなところに訴えかける力でもあるんです。だから現代アートには、デュシャンが嫌った“網膜に奉仕する”作品、つまり目に優しいものではなく、むしろ人を不愉快にさせるものもたくさんあるんです。カレンダーのように単に壁に掛けて眺めるものではなく、観る人の頭の中にいろんな“嵐”を起こさせるようなね。そしてバンクシーのように、作品そのものだけではなく周囲の一連の動きが評価の基準になって、話題になることで価値が上がっていく。
歴史的に見ると、昔は神棚の上にあった芸術に対して反芸術、アンチアートという考え方が出てきたということなんです。まあ1本のバナナですら作品となり得るわけで、何でもありの世界ですよ。今やアートは狭義のいわゆる美術品といわれる絵画や彫刻以外にも領域が広がっていて、写真や映像、音だって含まれます。スピーカーを野外に並べて、その中で音を聞くというサウンドインスタレーションという環境的なジャンルもありますし。
アート作品は、ブランドにはない持続性と永遠性を伴う
三潴 どんなブランドでも、基本的にはデザイン化された商品であって、消費される対象なわけです。でもアートというのは芸術性が根本にあり、消費の対象ではなく、ある種の持続性と永遠性を伴うものです。デザインの場合、今は流行でみんなが評価していても、10年後にはそうではなくなるかもしれないけれど、アートはたとえ100年経っても良いものは良いと評価を得られる可能性があるでしょう。
ブランドは、現代アートのそういう性質に憧れるんです。一方でブランドはアーティストよりも有名であることが多いから、アーティスト側にとっては知名度を上げるチャンスでもある。村上隆も「ルイ・ヴィトン」とコラボすることによって、世界的な認知度が急激に高まりましたね。
三潴 アートは基本的に個人の思いやコンセプト、思想であり考えです。そこに歴史に残る作品を作るという作り手の強い願望が込められている。でもデザインは基本的には発注されて作るものだから、時代のニーズが前提なんです。それはメーカーからの依頼だったり、消費者の欲望を満たすカッコよさみたいなことなのですけど。通常そういった需要に応えるのはデザイナーの仕事です。しかし、それをアーティストにやらせると、彼ら独自の突飛な発想によって面白いものが生まれるから、ブランドや企業がコラボしたがる、という側面もあるかもしれません。
※第2回(こちら)に続く。
● 三潴 末雄(みづま・すえお)
ミヅマアートギャラリー エグゼクティブ・ディレクター。東京生まれ。成城大学文芸学部卒業。1980年代からギャラリー活動を開始、1994年ミヅマアートギャラリーを東京・青山に開廊(現在は新宿区市谷田町)。2000年から海外のアートフェアに積極的に参加。2008年に北京にMizuma & One Galleryを、2012年にシンガポールにMizuma Galleryを、2018年にニューヨークにMizuma & Kipsを開廊。著書に『アートにとって価値とは何か』(幻冬舎刊)、『MIZUMA 手の国の鬼才たち』(求龍堂刊)。
ポートレート撮影/野口 博