2019.01.01
“専属モデルは全員社員”というミャンマー発の奇跡の日本人事業【vol.10】
シンガポールを拠点にアジアを巡るエンジェル投資家、加藤順彦ポールさん。この10年、東南アジアを中心に周る中で得た、投資の知識や処世術、そして関わるひととの熱いドラマを展開します。
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文/加藤順彦
この10年アジアでもっとも姿を変えた国
おそらく2010年代の東南アジアで、もっとも変化した街でしょう。ビザも2018年10月からは不要となり、空軍の発着基地のようだった空港も小綺麗になり、道路も舗装されました。わずか8年ですが大袈裟でなく、まさに隔世の感を覚えます。
まだまだ続く都市開発競争
そして往時は米ドルしか兌換価値のある外国通貨がありませんでした。シンガポールドルも日本円も意味なし。しかも、折り目のないキレイで新しい高額の米ドル紙幣に高い価値があり、小額で、汚い米ドル紙幣は交換価値が低い!というのです。違う惑星の通貨価値を提示されたような気持ちになったものです。お陰で初回はほんとに米ドル持ち合わせのみの貧乏旅行となってしまいました。いまも笑える想い出です。
それが今や立派な大都会なわけですから、如何にこの7~8年の開発が凄まじかったか、を考えざるを得ません。上海やバンコクがそうであったように突貫造りの建物の陳腐化が早回しで進むので、あと30年は造っては壊す止めどないスクラップアンドビルドが続くのでしょう。
ヤンゴンの土地を売買する日本人女性
彼女はマンションをミャンマー人の部下を通じて販売していました。まだ更地にすらなってない建築予定地に立つという未来的なマンションのCGが描かれてあるパンフレットを営業ツールにして、部下たちはひと部屋1000万円するマンションを口八丁で売っていました。これは東南アジアでよく見かける光景です。が、うら若き日本人女性が管理職というのは珍しい。
また彼女はこれからマンションを建てるという用地買収にも、会社において一役担っていました。彼等は百枚単位で輪ゴムでぐるぐる巻きになってる1000チャットの札束(当時は100USドル=10万チャット前後)を鞄にぎっしり詰めて地上げ交渉していたのです。
しばらくして、そう2年ほど経ったでしょうか。仙台の実家にいるという赤星結花さんから連絡がありました。最初が鮮烈な印象だったのでよく憶えていましたが、久しぶりに東京で会った彼女はヤンゴンの不動産会社を既に辞めていました。彼女曰く、ヤンゴンに帰り、ミャンマーの女性たちを可愛くお洒落にしていくための情報誌を作りたい、と言うのです。
僕は少し考えて、それは時期尚早じゃないかな、と。「もし編集や出版に興味があるのであれば、上京して出版社に勤めてみないか」と切り返しました。そして参画先ゴマブックスに転じた彼女は、予想通りめきめきと頭角を現し、企画として編集として素晴らしい業績を挙げました。ですが、やはりヤンゴンへの想いは断ち難たかったようで、在職1年ほどで再び単身ヤンゴンへ赴くことになったのでした。
ヤンゴンで目覚ましく活躍する女性経営者に
聞けば、ミャンマーという国は株価を変えて新株の発行ができない!(笑)というトンデモルールだといいます。かたや旺盛な飛躍の機会があるYUYUがバリエーションを上げた新株発行を通じて資金調達しない手はありません。ゆえに彼女は持株会社をシンガポールに設立するために、僕に相談に来たのです。僕は直ぐさまミャンマー事業会社の100%持株会社をシンガポールに新設し、同時に同社の資本と経営に参画することにしたのです。そのまま共に支援者を探し出した新会社は、一年後の2017年末に初めての優先株発行を行いました。
専属モデルはすべて社員
毎日、新しいコンテンツを公開する体制に進化し、5名の専属モデルは全員社員として雇用し、他のスタッフと同じく日々働いてます。30歳を迎えたCEOの彼女はもはや貫禄さえ感じるほど頼もしくなりましたが、事業への変わらぬ直向きさがなにより素晴らしいと感じています。
● 加藤順彦ポール(事業家・LENSMODE PTE LTD)
ASEANで日本人の起業する事業に資本と経営の両面から参画するハンズオン型エンジェルを得意とする事業家。1967年生まれ。大阪府豊中市出身。関西学院大学在学中に株式会社リョーマの設立に参画。1992年、有限会社日広(現GMO NIKKO株式会社)を創業。2008年、NIKKOのGMOグループ傘下入りに伴い退任しシンガポールへ移住。2010年、シンガポール永住権取得。主な参画先にKAMARQ、AGRIBUDDY、ビットバンク、VoiStock等。近著『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』(ゴマブックス)。