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2022.02.01

伊達政宗は宣伝上手だった? ビジネスに活かす偉人の生き方【前編】

テクノロジーや価値観の変化の真っ只中にある現在、私たちはどのように生きるべきか? そんな時には、歴史上の変革期に活躍した人物から学ぶべき、と語るのが歴史家・作家である加来耕三先生。時代を切り拓く大人の条件を伺いました。

CREDIT :

文/牛丸由紀子 イラスト/ゴトウイサク

テクノロジーの急激な進化と価値観の変化に伴って、変革の真っ只中にある現代。でも歴史を振り返れば、武将による勢力争いが続いた戦国時代や、近代国家へと大きく舵を切った明治期など、日本は大きな変革期を何度も乗り越えてきました。

ならば、そこに現代の我々も学べる部分はきっとあるはずと、歴史家・作家である加来耕三先生に、時代を切り拓く大人の条件を掘り下げていただきます。

歴史は成功と失敗の知識の宝庫

「歴史はおとぎ話ではなく、現在と地続きでつながっているもの。どんな偉人でも自分と同じように悩んだり、大きな失敗をしたりしています。時代は変わっても、彼らの思考や行動を知れば、導き出せることはたくさんあるはずです」(加来先生、以下同)

加来先生は、偉人たちの「偉大な功績」と「意外な素顔」に迫りながら、現代のビジネス組織やマネジメントにも通じる人生哲学を学ぶ『偉人・素顔の履歴書』(BS11)をはじめ、さまざまな番組で先人に学ぶ知恵を伝えてきました。

「歴史上の人物の行動・考え方から学ぶ良さは、異なる時代だからこそ、その人物を客観的に見られること。現代の身近な事になると主観が入ってしまい、本質にまでたどり着けないこともあると思います。

未来は予言できませんが、過去には成功も失敗も数々の知識が蓄積されています。それを使わないのはもったいない。歴史に目を向け、尊敬できるあるいは敬遠したい人物を探っていくことで、きっと自分自身のとるべき姿も見えてくるのではないかと思います。

自分に似ているかも、これなら真似できそう、という人物を見つけてみてくださいね」

それでは、タイプ別に4名の偉人たちが時代を切り拓いた秘訣を伺いましょう。
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◆ タイプ 01 織田信長

時代に翻弄されず、愚直なまでに自分を信じる

「戦国時代の武将として名高い三英傑のひとりであり、江戸幕府へと続く天下統一の先鞭をつけたのが織田信長。大胆不敵で気性の激しいイメージがありますが、実は忍耐強い人でした。

勝てるまで綿密に準備し、納得したうえで戦うのが信長の戦術。奇襲と言われる桶狭間の戦いも、今川義元が仕掛けてきたから仕方なく討って出たようなもの。それ以来、一度も奇襲戦はしていないんです。

信長は“尾張の大うつけ”とも言われ、同時代の人からは変わり者として見られていました。そもそも戦国時代に、人に笑われるのは武士として一番恥ずべきこと。そのために、のちの“武士道”が生まれたように、日本人が今でもメンツにこだわる精神性をもっているのも、この時代から始まっていると言えるでしょう。

でも、信長はどんなに笑われようとも、間抜けだと言われようとも気にしない愚直なまでに自分を信じて、強い意志を持ち続けました
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「例えば、信長軍では最前線で6mあまりの長さの長槍を使っています。長さは通常の1.5倍以上なので、さぞかし周りからは『長いだけで使いにくい槍なんて』と嘲笑されたことでしょう。でもそこには、信長ならではの大きな意味があったのです。

槍を使うのは農民出身の足軽たち。槍の技量がない彼らには突かせるのではなく、槍の先ではたかせて、相手の前進を阻んだのです。槍は突くものではなく、はたくものという発想の転換で、戦術そのものを変えてしまったのです。

どれだけバカにされようとも、勝ちは勝ち。時に人に理解されなくても自分を信じ、自分の行く道を定め困難を乗り越えていきました

しかしながら、愚直であることは裏を返すと他人の気持ちが分からないということ。そのために信長は、本能寺の変で命を落とすことになりましたね。その教訓として他人への思いやりも必要ではありますが、周りに翻弄されずに自分の意志を貫く愚直さは、不確実な今の時代にも活かせる生き方だと思います」
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◆ タイプ 02 伊達政宗

情報を分析し、相手と適切な距離を保つ

「都から遠く離れ、何につけても遅れていた東北に、茶道をはじめ文化と教養をもたらしたのが伊達政宗です。天下を狙った野心家と言われ、時に疑心暗鬼な上司から疎まれながらも、結果的には徳川3人の将軍に仕え、長い期間活躍しました。

子どもの頃、天然痘の感染で右目の視力を失い、武士として致命的なハンデを負いながら、名を成した理由のひとつが、人との距離の取り方だったと思います。

例えば、豊臣秀吉の小田原攻めに、政宗は遅れてやってきます。これは秀吉の傘下に入るか否かを思案していたからです。

これは、普通なら領地没収、切腹でもおかしくありません。でも、その時の格好が白装束。最初から死装束で現れて、秀吉に謝罪をするというパフォーマンスをしたのです。秀吉にはこの演出が効くだろう、と判断してのこと。相手の性格を判断し、自身の覚悟を伝えたことで、事なきを得ました」
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「また、自分が殺されるかどうかという時にも、政宗の分析・判断力が発揮されます。家康が仙台へ出陣しようとし、政宗に危機が迫りました。

そんな政宗の元に、家康の愛妾・於勝(おかつ)から『今ならまだ間に合うから駿府へ出てくるように』という旨の手紙が届きます。家臣からは反対されましたが、政宗は熟慮し、確かに今攻められる具体的な理由が、自分には思い当たらないと、家康のもとへ参じました。

政宗が謀叛を企てている、と息子の松平忠輝(六男・政宗の娘婿)から聞いていた家康は、わざわざ来てくれた政宗のことを信じ、またここでも危機を乗り越えたのです。

政宗は、相手を知り冷静に距離を保つためにもマメに言葉を交わし、機会あるごとに手紙を書き、進物も送るなど、あらゆる形で情報収集をしていました。特に手紙については、当時大名は代筆で書くことが多かったのですが、政宗は必ず自筆で書いていました。以前から於勝とも文を送り合う仲だった(※)からこそ、危機に面して有益な情報が届いたのです」
※於勝(家康の側室・英勝院)の産んだ家康の末子・市姫は、政宗の嫡男・虎菊丸(のち二代藩主忠宗)と婚約していたが、市姫は4歳で夭折。しかし、政宗は於勝との文のやりとりは続けていた。
「自分がどう思っているかを誰かに伝えれば、それが噂となり、他にも広まっていく。今でいう宣伝も上手かったのだと思います。コミュニケーション能力が高かったのでしょうね。

今の時代、情報はいくらでも手に入れられますが、入手した時点で満足し、わかった気になっていないでしょうか? さまざまな情報を手に入れたら、しっかり分析をし、的確にアウトプットする。それが政宗の処世術だったのです」

◆◆◆ 

後編では、坂本龍馬、渋沢栄一の生き方をご紹介します。

● 加来耕三(かく・こうぞう)

1958年大阪府出身。奈良大学文学部史学科卒業後、学究生活を経て、1984年より奈良大学文学部研究員に。現在は大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として独自の史観に基づく著作活動を行っている。『鎌倉殿を立てた北条家の叡智』(育鵬社)、『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学』(日経BP)など著書も多数。BS11『偉人・素顔の履歴書』などテレビ・ラジオ番組の出演・監修も多い。

BS11『偉人・素顔の履歴書』

戦国武将や幕末志士など、日本史にその名を刻む英雄・偉人たちの【偉大な功績】 と 【意外な素顔】 に迫る歴史教養番組。歴史好きなナビゲーターと歴史家・加来耕三が、自由なトークを展開しながら、偉人の本質的な性格や価値観、趣味・特技など、パーソナルな“履歴書”をまとめ上げていきます。偉人の人生哲学から、現代ビジネスにも通じる組織マネジメントまで学びを凝縮した60分です。

放送局/BS11(全番組が無料放送、BS放送対応なら、全国どこでも視聴可能)
放送時間/毎週土曜日20:00〜20:55
オンデマンド配信(視聴無料)はこちら

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