2022.05.25
野宮真貴「渋谷系の女王がオルタナティブ・ポップスのディーバになるまで」
1990年代にピチカート・ファイヴのヴォーカリストとして活躍した野宮真貴さんが、デビュー40周年記念アルバム『New Beautiful』を発表しました。「渋谷系」のこと、ソロになって再び「渋谷系を歌う」こと、そして40年を凝縮した最新作のことを語ってくれました。
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文/松永尚久 写真/岸本咲子
日本の「シティポップ」音楽を世界に発信した韓国出身のNight Tempoさんをはじめとする海外の気鋭クリエイターたちと再構築したピチカート・ファイヴの名曲の数々、同時期を駆け抜ける「おないどし」であるクレイジーケンバンドの横山剣さんとのデュエットソング、デビュー曲を手がけた鈴木慶一さん提供曲など、これまでのキャリアを総括しながら、その先も感じさせる、濃い内容となっています。
年齢を重ねて、新たな「美しさ」に身を包んだ野宮さんを感じられる最新作。そんな野宮さんに、40年の道のり、そしてカッコよさの基準をうかがいました。
小西さんの「君をスターにするから」という言葉で、ピチカート・ファイヴに参加
ありがとうございます。自分が好きな、かつ今までの軌跡を表現できたステージになったと思います。
—— 野宮さんにとって40年はどんな時間でしたか?
子どもの頃からシンガーになることを夢見ていて、北海道から上京してバンドを結成したり、コンテストを受けたりして、デビューのきっかけを探していました。その後、1981年にデビューすることになるんですけど、当時はアイドル全盛期。かろうじて私もその中に入ることができましたが、ちょっとロック寄り、ニューウエイブ寄りというか、ほかの方と異なる位置にいたと思います。
「渋谷系」と呼ばれた90年代のピチカート・ファイヴ時代も、日本の音楽のメインストリームとは違う場所にいた気がしますね。エッジの効いたところにいるのが心地よくて、気づいたら40年が経過していたという感じです。
今回のアルバム『New Beautiful』のブックレットで「オルタナティブ・ポップスのディーバ」と評していただいたのですが、自分の活動はそういうことだったんだと実感しましたね。「渋谷系の女王」と言っていただけるのもありがたいのですが、それは私の活動の一部でしかありませんから。
まったく想像していませんでしたね、当時は。実はデビュー前に会社員として働いていた時期もあったんですが、自分の好きな音楽とファッションを仕事にしたいと思い、さまざまなバンドに参加させてもらったり、オーディションを受けていました。
ただ、運よくデビューさせていただいても思い通りに事は運ばず、1年足らずで契約は終了。その後、ポータブル・ロックというバンドのヴォーカルに誘われて参加するのですが、それだけでは生活できなくて、ミュージシャンのバックやCMソングなどを歌い、できるだけ音楽のそばにいようと思っていました。
例えばCMソングは、現場で初めて譜面を渡されてすぐに歌録りという流れが多いんです。私は譜面を読めなかったので、作曲者の方に一度だけ演奏していただいて、それを頼りに必死になってレコーディングしました。そのおかげで音階をすぐに耳で理解できる特技を身につけられましたし、以降の活動に繋がる貴重な経験をたくさんさせてもらいました。
—— 1980年代の地道な活動が、ピチカート・ファイヴへ繋がるワケですね。
さまざまなミュージシャンと共演するなかで、ピチカート・ファイヴの作品にも参加するようになりました。その頃のヴォーカルは田島貴男さんだったのですが、オリジナル・ラヴに専念することになり、次のヴォーカリストとして小西康陽さんから毎日のように熱烈なラヴコールをいただいたんです。
そして「君をスターにするから」というひと言にかけてみようと思って、ポータブル・ロックの活動をお休みして、参加することに決めました。
—— 小西さんの言葉どおり、ピチカート・ファイヴは大ブレイクを果たしました。
本当に、想像していた以上の世界にピチカート・ファイヴは連れていってくれましたね。
「渋谷系」には、埋もれている面白いカルチャーを伝える役割も
私たち自体は、その熱狂に対してあまりピンときていなかったですね。自ら名乗ることもしなかったし、「渋谷系」を強く意識したこともなかったです。なかには、そう呼ばれることを嫌がるミュージシャンもいましたね。
—— 渋谷の外資系CDショップから、ムーブメントが生まれたと聞きました。
当時、私たちが大きな影響を受けたバート・バカラックなど1960年代に活躍したミュージシャンの作品が多くCD化されていて、それらを紹介するためにHMV渋谷店のバイヤーの太田 浩さんが、ピチカート・ファイヴの作品なども一緒に並べてくださっていた。それが「渋谷系」のルーツになったのかなって思います。
—— その頃、外資系CDショップのレジ袋を持って歩くのがおしゃれとされる風潮もあったり、「渋谷系」はファッションなどのカルチャーにも影響を与えましたよね。
そうですね。「渋谷系」って音楽だけでなく、ファッションや映画など、さまざまなカルチャーに面白いものが埋もれていることを、多くの人に伝える役割の一端を担っていたと思います。アートディレクターの信藤三雄さんの影響も大きかったですね。彼が手がけたCDジャケットは、すべて「渋谷系」と呼ばれていた気がしますから。
おしゃれは幼い頃から大好きで、それを小西さんも十分に理解してくださっていたので、ヴィジュアルも積極的に展開していく戦略を立てて、ファッション誌のように毎月作品を発表しました。作品ごとにさまざまなヴィジュアルや衣装にトライすることができて、とても楽しかったです。
小西さんと私の関係性って「監督と女優」みたいなもので、彼が表現したいことを私が体現するという役割分担だったんです。
—— 野宮さんから見た、1990年代の渋谷はどんな街でしたか?
渋谷には、ファッションビル「109」を発信源とした「ギャル」文化と、CDショップやフランスの人気ブランドなどを中心にした「渋谷系」という、2つの潮流があったと思います。
相反するように見える2つですが、実は90年代初期の私のライヴ衣装は、「109」の中のL.A.発のインポートものを扱うショップで、ほかのお客さんに紛れながら購入したものだったり(笑)。90年代後半には、森本容子さん(109のカリスマ店員として注目され、現在はファッション・プロデューサーとして活躍)との交流が始まったり、意外と繋がりがあるんですよ。
—— そんなピチカート・ファイヴですが、2001年に解散します。
解散直後どうしようか考えていたところに、フリー編集者の川勝正幸さん(2012年に逝去)をプロデューサーに迎えて作品を発表することになったんです。彼はプロの音楽家ではありませんが、私のことをデビュー当時から見守ってくださっていたし、編集者の視点で面白い音楽をたくさん知っていました。
タイのバンドのFUTONや、菊池成孔さん、横山剣さんなど、面白いミュージシャンを私に紹介してくれたんです。それで、ピチカート・ファイヴとは異なる切り口で新しいものを表現していこうと思いました。だからしばらくは、ピチカート・ファイヴの楽曲はイベントに呼ばれて歌うことはあっても、積極的にパフォーマンスすることはなかったですね。
埋もれている音楽を、自分の声で発掘&紹介することが、私の使命
デビュー30周年を迎えた頃で、それまでのキャリアを振り返って、やっぱりピチカート・ファイヴを避けて通ることはできないと感じました。自分を知っていただけるきっかけを与えてもらったし、また聴きたい人も多いのではと思ったんです。
そこで当時の音源と向き合ってみると、ピチカート・ファイヴは素晴らしいと再確認したというか。いい音楽は、時が経っても色褪せることはないことに気づいて『野宮真貴、渋谷系を歌う。』を発表しました。
その「気づき」を次にどう活かそうか考えていた時に、ちょうどバート・バカラックの来日公演があったんです。改めて彼の音楽は「天国」にいるような気分にさせると感動して、日本のバカラック・マニアの第一人者と呼ばれる音楽プロデューサーの坂口 修さんに連絡をしたところ、一緒に『世界は愛を求めてる。 What The World Needs Now Is Love ~野宮真貴、渋谷系を歌う。~』(2015年発表)を制作する流れになりました。
以降も、ロジャー・ニコルズ、フランシス・レイ、村井邦彦さん、山下達郎さん、大滝詠一さん、荒井由実さんなど、渋谷系のミュージシャンたちがリスペクトしている「渋谷系のルーツ」の音楽や「渋谷系のヒット曲」を自分の声を使って発掘、紹介していくことが、私に課せられた使命ではないかと思い、「渋谷系を歌う」プロジェクトが続いています。
一応「渋谷系の女王」なんて言われていますから、その責任を全うしようかと(笑)。「渋谷系」という言葉が生まれて20年くらい経過したことで、スタンダード化したというか。さまざまなシンガーに歌い繋がれていく領域にたどり着いたのではないかと思うんです。
「渋谷系を歌う」プロジェクトのおかげで、「渋谷系再燃」などの書籍や特集が組まれましたし、当時抵抗感を示していたミュージシャンも今ではすんなり「渋谷系」を受け入れているのではないかと(笑)。私たちの「渋谷系スタンダード化計画」は順調に進んでいるかと思います! そしてこの10年間の地道な活動が今の「シティポップブーム」にも繋がっていると自負しているんです。
—— 「渋谷系」音楽の魅力は?
歌が上手ければいいんじゃないんですよね。歌唱力より「センス」を求められていて。世の中に溢れている音楽やアートから、素敵なものをセレクトするセンス、そしてそれを自分のものとして取り入れて表現するセンス。それが現在になって再び注目され、認められる理由になっているのではと思います。
「渋谷系を歌う」をスタートする前に、ファッション・デザイナーの丸山敬太さんから「コレクションで小沢健二さんの『僕らが旅に出る理由』を歌ってほしい」というリクエストをいただいたんです。そのお誘いがなかったら、このプロジェクトは始まっていなかったかもしれません。これまでもそうですが、人との出会いなどがきっかけになって、私の人生は大きなターニング・ポイントを迎えている気がします。
—— 「渋谷系」のセンスの高いサウンドは、「シティポップ」の流れもあって、海外でも脚光を浴びています。
Night Tempoさんをはじめ、自分たちが作った音楽を現代の海外のクリエイターが面白がってくれる現象は面白いというか。1990年代初頭に私たちが海外のレコードショップで、埋もれている音楽を必死に探していた頃に近い匂いがします。
当時レコードショップへ行くと、現地の方が「どうしてこんな古い音楽に興味があるのか?」って不思議そうにしていました。その素晴らしさを伝えると「そうだったのか! 自分たちにはそんな宝物があったんだ」と気づいてもらえるんです。それと同じようなことが、今の日本で起こっているのかなって。
この40年の日本ポップスの歴史を凝縮した作品に仕上がった
ピチカート・ファイヴの楽曲で私のことを知ったのかと思いきや、Night Tempoさんは、デビュー曲をしっかりチェックしていたんです(笑)。それで、彼が2021年にリリースしたアルバム『Ladies In The City』に参加してほしいという話をいただきました。
「1980年代から今を繋げる役割としてアルバムに必要不可欠な存在で、何度断られてもアタックし続けるつもりでいた」というラヴコールを受けました。私も共演したいと考えていたので、二つ返事で引き受けたのですが(笑)。
40年を1枚のアルバムにまとめるのは、とても難しかったですね。私が出会ったさまざまな音楽や人々を振り返って、現在の私が歌いたい楽曲や関わりたい人と完成させたアルバムになります。結果、過去と未来が繋がったというか。大それた考えかもしれませんが、この40年の日本ポップスの歴史を凝縮した作品に仕上がったのではないかと思います。
—— また、デビュー曲と同じ「ビクター」からのアルバム発売ですね。
「迷ったら先祖帰りしろ」という大滝詠一さんの教えを守って、古巣であるビクターさんからリリースできたことは、本当に感慨深いです。こうやって戻ることができたのは、スタッフはもちろんリスナーの方々の支えがあったからこそ。その感謝の気持ちでいっぱいです。
—— 『New Beautiful』を聴いていると、40年は通過点で、さらにおしゃれに進化していく野宮さんの姿が見えるようでした。
以前は還暦まで歌えたらそれでいいと思っていたのですが、先日ライヴをしてみてまだまだいけると感じました(笑)。だから、あえて目標など設定することなく、楽しく歌い続けられたら。
そのためには、今何をするのかが大切。体調管理など、これからも歌える状況になるよう、毎日しっかり準備をしていきたいと思っています。
60歳を過ぎてから、歌うことが楽しくなってきた
ようやく、心から歌うことが楽しくなってきました。と言って、これまでが辛かったワケではないのですが、なんだか吹っ切れた気分なんです。以前、(1960年代から活躍の)スタイリストの高橋靖子さんが「60歳を過ぎてから仕事が楽しくなってきた」とおっしゃっていたのですが、その気持ちがわかってきました。
長年活動していると、どうしても同じ人々や慣れた方法で仕事をしがちですが、考えや年齢の異なる方々に身を委ねてみると、とても心地いい! 音楽は自由なんだという思いを満喫できるようになりました。
—— 最近「断捨離」したことはありますか?
「愛」を感じられないことはしなくなりました。自分が情熱を捧げられないものには、もう関わらなくてもいいのかなという気持ちになっていますね。
ロック精神ですね。真面目で堅苦しいのはつまらないじゃないですか。“ちょいワル”な感じです。
—— LEONと同じですね(笑)。ではカッコいいと思う男性像も“ちょいワル”ですか?
はい(笑)。あとは、人って年齢を重ねると、身だしなみに気をつけなくなる傾向があるのかなって。別に全身キメキメにコーディネートしなくてもよいのですが、「小綺麗さ」を感じさせてほしいです。この「小」の塩梅が大切だと思います。
—— 有名人で例えるなら、どなたを「カッコいい」と思いますか?
真っ先に思い浮かぶのが、みうらじゅんさん! タモリさん、横山剣さんや鈴木雅之さんも素敵ですね。一見ミステリアスなんですけど、ユーモアがある方。あれ、皆さんサングラスですね。私、サングラス好きなのかも(笑)。
—— 確かに(笑)。野宮さんは海外でも活動していますが、日本人の男性に身につけてもらいたい「カッコよさ」はありますか?
スマートにエスコートできるならそれに越したことはないですが、その気持ちを感じさせてほしいですね。女性が「自分は特別な存在なんだ」と思えるような行動をしていただきたいというか。
ある時、著名なロボット・デザイナーと銀座へ食事に行くことになって、現れたその方がタキシード姿だったんです。「私のために着てくださったんだ」と感動しました。そういう心遣いが素敵だなって思います。
ただし、若い女の子ばかりに気を遣ってはダメ。年齢とともに積み重なっていく美しさがあると思うので、それに気づける大人の男性が増えると、日本の社会や文化はよりよいものに進化していくのではないでしょうか。
—— 最後にLEON読者にメッセージをお願いします。
さり気なく女性にプレゼントできる男性もおしゃれだと思います。音楽の“ちょいプレ”はいかがでしょう? そんな時はぜひ、このアルバムを活用してくださいね(笑)。
『New Beautiful』
初回限定盤:CD+Blu-ray+ブックレット/8030円、通常盤:CD/3300円/スピードスターレコーズ/ビクターエンタテインメント
2022年5月25日には『New Beautiful』の配信とアナログ盤(4950円)、ポータブル・ロックのオールタイム・ベスト企画アルバム『PAST & FUTURE ~My Favorite Portable Rock』も発売。
野宮真貴Official Web Site/https://www.missmakinomiya.com
● 野宮真貴(のみや・まき)
1981年にシングル「ピンクの心」でデビュー、その後ポータブル・ロック加入などを経て、ピチカート・ファイヴの3代目ヴォーカリストに。2001年よりソロ・ミュージシャンとして活動開始。音楽のみならず、ファッションやヘルス&ビューティのプロデュース、エッセイの刊行など多方面で活躍中。プロデュースしたリーディンググラス「JINS Mature Glasses」も話題を呼んでいる。