2023.01.20
夢を追うプロ冒険家 阿部雅龍「笑って死ねるような人生を生きたい」【前編】
大学在学中に冒険活動を始め、2022年に植村直己冒険賞を受賞したプロ冒険家の阿部雅龍さん。彼が冒険を求める理由とは? 日常とはかけ離れた困難な環境で得たいものとは?
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写真/田中駿伍(maettico) 文/木村千鶴 編集/岸澤美希(LEON.JP)
「笑って死ねるような人生を生きたい」から、冒険家を選んだ
2021年に挑戦した人類未到の「しらせルート」での南極点単独徒歩到達は、惜しくも撤退に終わりましたが、2023年の11月に再チャレンジを目指しています。阿部さんの冒険のテーマは「単独・人力」。必要な荷を自力で運び、たったひとりで目標に向かって行く冒険の旅はもう20年も続いています。
我々の日常とはかけ離れた冒険家としての日々は一体どんなものなんでしょうか。
「冒険の始まりは、母が買ってくれた一冊の本」
阿部雅龍さん(以下、阿部) 冒険家への憧れは10歳の時に母親が買ってくれた本から始まっています。子供向けの“漫画で読む歴史”みたいな本です。そこに冒険家や探検家のことが描かれていたんです。
僕自身、子供の頃は身体が弱くて、どちらかというといじめられっ子でした。グループを作る時に一人だけ余っちゃうような子。先生に「ろくな大人にならない」と言われたこともあります。自分に自信がなかったので、そこに書かれた冒険家や探検家たちが、命をかけて困難を乗り越えていく姿にとても憧れて、強く心に残ったんです。
僕は冒険がしたいというより、冒険家という生き方がしたい。冒険家は僕が憧れていたヒーローであり、カッコいい大人でした。
── 今では身体が弱かったことなど全く想像もつきません。ご兄弟はいらっしゃったんですか。
阿部 シングルマザー家庭のひとりっ子です。僕が4歳の時に、29歳だった父がバイクの交通事故で亡くなりました。そのことが僕の人生の大根幹になっています。若くても高齢でも、男でも女でも関係なく、人間ってのはいずれ平等に、ある意味理不尽に死ぬんだと。いつ終わるかわからない人生なのであれば、やっぱり自分が望んだ生き方をしたいと思いました。
── 冒険の第一歩は何でしたか。
阿部 大学2年の春休みにヒッチハイクでひとり旅をしたんです。それが僕自身を大きく変えた体験でした。学生時代はお金が全然なかったので、駅前のベンチで寝て、食べ物もほとんど食べられないような旅で(笑)。
そんな時に通りすがりの人に泊めてもらったり、ヒッチハイクで乗せてくれたトラックの運ちゃんにご飯を奢ってもらったりとかしてね。そういう状況だからこそ人の優しさを感じたし、自分の弱さも、いかに日常生活が幸せなのかもわかりました。
恩師となる冒険家・大場満郎さんとの出会い
阿部 大学に戻ってからは、当時熱中していた空手漬けの日々でした。同時に就職活動が始まったんですが、働きたい職業があるわけでもなく、勉強も大っ嫌いなので(笑)、大学院に進む気もしない。
自分は何がしたいんだろうと考えている時に、子供の頃に憧れた冒険家たちが頭に浮かんできたんです。ただ、彼らのようになりたくても、やる勇気もなければ、どうすればなれるのかも全く見つけられない。何からすればいいのかを模索して、インターネットで冒険家のコラムを読み漁っていた時に、後に恩師となる大場満郎さんのインタビュー記事を読んだんです。
その中で大場さんはなぜ冒険に行くのかと聞かれ、「人生は1回しかないから、笑って死ねるような人生を生きたい。だから僕は北極や南極を冒険するんだ」と言っていました。彼は凍傷で足の指は全部ないし、手の指も何本もないんですが、それでもやり続ける。その生き方に凄く衝撃を受けて、「自分は今、笑って死ねるような人生を生きているのか」と自問自答しましたが、そうじゃなかった。
そこで大場さんに「あなたみたいな人間になりたいので、なんとか側に置いて欲しい」と手紙を書いて、彼がやっている冒険学校に大学を休学してスタッフとして入りました。とはいえ、何でもしますと言って転がり込む形でしたが(笑)。
── 冒険学校では何をしましたか。
阿部 冒険学校は山奥のログハウスみたいなところで、そこにみんなで寝食をともにしていました。僕の主な仕事は講演会をさばいたり、取材の中継ぎをしたりとか、あとは冒険の企画書の文字確認や犬ソリの犬の世話とか。結果的に冒険の書類を見ていたことは後々参考になりましたね。
阿部 冒険家のものの考え方でしょうか。大場さんは自分の北極・南極冒険のために大金を集めることができる、大物と言われるような人たちにも応援されるような方。彼の何が人を惹きつけて魅了するのか、どういう生活を送っているかは、一緒に暮らすことで見えてきた。
── 内弟子みたいな関係だったんですね。大場さんの暮らしはどうでしたか。
阿部 意外性がありました。早朝に起きてトレーニングにも行くんですが、それだけじゃなく、朝から経済新聞を読み、ニュース番組を見て、社会のことをすごく勉強しようとしている。それで「阿部ちゃん、社会の皆さんとやっていくんだったら、社会のことをチェックしておかないと話ができないんですよ」と教えてくれました。
筆まめで、年賀状を全て手書きで千枚も書くし、お礼の手紙も欠かさないんです。人に応援していただけるってこういうところなんだなと。個人の夢を叶えるのに人の心を動かし、それだけのお金が集まる。それを学べたのは大場さんだからこそです。
── 相手のことをとても大事にされているんですね。プロ冒険家と聞くと、豪快な人をイメージしますが、阿部さんと実際に話すと、とても繊細な人だと感じます。
阿部 恩師は「勇敢な冒険家はすぐ死ぬ。臆病な人間だけが生き残る。だから阿部ちゃんは臆病にならないといけないんだよ」とよく言ってました。そういう教えがあって、今の僕が成り立っています。でも僕は、冒険学校は半年で離れたんです。大場さんは結構バシッと言う人で、「阿部ちゃん、自分でやらなきゃダメだよ。英語も喋れないしお金も集められない、まだ何もやってないじゃん」って言われて。
── 厳しいですね。
阿部 でもその言葉で決心できました。冒険学校を離れて、地元の秋田で3つの仕事を掛け持ちし、120万円を貯めてから南米に自転車だけ担いで飛んでいきました。
“世界の終わり”に立って、自分の可能性を見た
阿部 刺激がありましたが、とにかく不安だったし、怖かったですね。外国に行ったこともないのに、10カ月間かけて自転車で南米を縦断していく。当時はスマホもなかったので情報は人から聞くしかないけど、言葉が話せない。とにかく毎日必死でした。人の優しさはありがたかったけど、でも常に怖かった。
ペルーの港町で、銀行を出た瞬間に強盗10人に囲まれた時もありました。その時は、隙をついてひとりに思いっきりタックルして、そのまま後ろを振り返らずに全力で走って逃げることができましたけど。
── 強盗に囲まれて! そんな中10カ月旅をしたんですね。
阿部 はい、南米をずっと下っていて、アルゼンチンのパタゴニアまで。そこには道路の終わりがあって、標識にスペイン語で「フィン・デル・ムンド」って書いてある。日本語で言うと、「世界の終わり」です。
阿部 凄く自信が付きました。自転車を漕ぐのは誰でもできることかもしれないけど、当時の僕にとって凄く大きいことだったから。でも終わった瞬間にきたのは満足感ではありませんでした。「今これができたなら、もっといろんな冒険ができるんじゃないか」と、自分自身の可能性を感じたんです。世界の終わりにいるけど、僕の心はそこから先がバーっと広がってるように感じました。
── たったひとりで、言葉も通じないところでやりきった。そこはゴールじゃなくてスタートだと感じたんですね。南極を目指そうと思ったのは、どの時点からなんですか。
阿部 南極は最初からです。冒険をやっていて、南極点というハイエンドのものに憧れない人はいないです。例えば野球だったらイチローを目指したいじゃないですか。誰だってトップに憧れを持つのが当たり前だと思っています。
● 阿部雅龍(あべ・まさたつ)
夢を追う男/プロ冒険家。秋田県出身。秋田大学在校中から冒険活動を開始。全て人力単独行。2017年に人力車をひきながら日本の一宮68箇所を巡る「リキシャジャパントラバース―一宮68箇所人力車参り―6400㎞」を達成した。2019年1月に日本人初踏破の「メスナールート」による南極点単独徒歩到達918kmを達成。2021年に人類未到の「しらせルート」での南極点単独徒歩到達に挑戦。2023年11月に前回のピックアップポイントからの再挑戦を予定中。
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