そうしたグラビア作品はどのように作られ、被写体の女性は何を思って撮られているのか。撮る側、撮られる側、両方側の気持ちも深く知っているのが、ご自身も女優として多くのグラビア撮影を経験、その後は女性タレントのグラビア企画をプロデュースする側に回って、いくつも作品を作ってきた小栗香織さんです。
小栗さんは昨年デビュー35周年を迎え、その記念として「小栗香織35th anniversary写真集チャーミング」(小学館刊)を発売。これまでに撮りためたグラビア写真の中から特にお気に入りの写真をセレクトし、中には今まで見ることができなかった貴重な未公開写真なども収録されています。
その小栗さんに、彼女だからこそ語れるグラビア撮影事情、被写体としての女性の本心などについて話を伺いました。
公衆電話で電話番号を覗き見て連絡をしてきたスカウトマン
小栗香織さん(以下、小栗) スカウトでした。17歳の時、学校帰りに、横浜で。でもそういうのって怪しいし、私は芸能界にも興味がなかったのでお断りして、家に“帰るコール”をするために公衆電話の列に並んだんです。当時は携帯電話もない時代ですから(笑)。ところが帰宅したら家の電話が鳴って、出てみたらさっきのスカウトマンだったんです(笑)。
── ええっ⁉ どういうことですか。もしかして公衆電話で番号を見られていた?
小栗 そう(笑)、後ろから見て覚えたみたいです。それで「どうしてもうちの社長に会ってほしい、会うだけでもいいから」と言うので、その情熱に押されて社長に会って。そこからですね。
── ご両親の反対はなかったんですか。
小栗 はい、すぐに辞めると思っていたみたいですね。私も大学に進学するつもりでしたし。でも入った途端にバ~っと仕事が決まってしまって、そのまま現在に至るといいますか(笑)。
小栗 最初の仕事がPARCOのポスターでした。そこから、としまえんの夏のイメージガールに決まって、TVコマーシャルの仕事をして……。
── 当時のPARCOと言えば日本のお洒落シーンの最前線ですよ! としまえんも毎年夏のプールの広告が話題になっていましたね。
小栗 そうでしたね。その後、「11PM」と「おにゃんこクラブ」と「オールナイトフジ」のオーディションの話が来て、最初に受けた11PMに受かったので、レギュラー出演するようになりました。当時高校生でしたが、11PM にはバラエティ曜日があり、金曜日はお色気がなかったんです。
ハワイ滞在2週間で撮影は1日だけ(笑)
小栗 本当にこの世界のことが何もわからなかったので、お仕事のひとつという感じでした。あの頃は海外での撮影が多かったので「海外に行ける!」みたいな。としまえんのコマーシャル撮影もハワイでした。
── としまえんなのにハワイ⁉ バブルならではですね(笑)。
小栗 はい(笑)。現地には日焼けするために1週間前から入るんですよ。その間も制作会社からお小遣いをもらって、アシスタントの人と毎日ホテルのプールで日焼けをして、ご飯を食べて買い物をして、楽しかったですね〜。で、スタッフが揃ってからまた1週間、合計2週間ハワイにいるんですが、撮影は1日だけ(笑)。
── 何ですか! その楽しいロケは(笑)。
小栗 本当にそうですよね。出来上がったポスターは、青空バックで顔のアップだったので「これ、ハワイじゃなくても……」とは思いました(笑)。ただ、監督がいきなり「ショートがいいんじゃない?」と言って、その場で髪を切られてショートにされちゃったのには、ちょっとびっくりしました。
小栗 カメラマンさんにもスタイリストさんにも大御所先生と言われるような方がいて、やっぱり凄い人、偉い人みたいなイメージはありました。でもカメラマンの皆さん凄く優しい人ばかりでした。
── この人は嫌だな、苦手だなという人はいなかったんですか?
小栗 そういう人はいなかったんですが、一度、カメラマンで、ロケに彼女さんを連れてきた人がいて(笑)。悪い人ではなかったんですけど「旅行に来てるんじゃないんだから〜」とは思いましたね。私も全然集中できなかったし。
── バブルならではの仰天エピソードの数々ですね(笑)。
グラビアは本当の自分でいられる。表現をしても自分
小栗 私自身はカメラを向けられると自然と入り込むことができたように思います。やはりプロのヘアメイクさんがついて、スタイリストさんが用意してくれたものを着ると、ガラリと気持ちが変わります。
── するとカメラマンと女優の「ふたりの世界」というよりも、みんなで空気を作っていく感じなんでしょうか。
小栗 ケースにもよるとは思いますが、私はその方が好きでした。自分もプロデューサーになってからは、事前にイメージ写真を作ってカメラマンやスタイリストさんに渡し、世界観を共有しています。そのうえで現場はカメラマンに任せます。
あとは撮られる側の気持ちもわかるので、なるべく撮影の時はモデルと同じように露出のある服を着たりして緊張感を和ませています。
小栗 自分が撮影されていた時に、周りのスタッフは男性が多くて、その人たちが腕を組んで見てる感じがすごく嫌だったんです。ニップレスの存在も知らずにそのままでしたから、やっぱりちょっと恥ずかしかった。なので私は撮られる側があまり恥ずかしくならないように、水着の撮影だったら同じように水着を着たりします。
── プロデューサーが水着を?
小栗 ええ、「小栗さん、何でそんなに肌出してんの⁉」って言われますけど(笑)、一緒に出したほうが恥ずかしくないでしょって(笑)。海外での撮影の時、フォトグラファーを含めた全員が女性だったので、みんな水着で撮影したこともあります。そうしてなるべく楽しく、リラックスできるいい現場を作りたいといつも意識してやっています。
── それは女性ならではの気遣いですね。ところで撮られる側としては女優の仕事とグラビアの仕事に違いはあったのでしょうか。
小栗 私にとってはグラビアは本当の自分を見せられるもの。表現するのは自分自身です。女優の仕事は、役になって演じるのでそこが違う気がします。グラビアは自分自身を表現できるので好きな仕事ではありましたね。
小栗 いつも特別優しくしてくれたカメラマンさんのことは素敵な人だと思っていましたが、かなり年上だったので恋心とかではなかったですね(笑)。会うたびに可愛い、可愛いと言ってくれるし、海外ロケで「小豆が食べたい」と無茶を言ってもわざわざ探して買ってきてくれたり。それぐらい優しかったんです。
小栗 ああ、疑似恋愛にはなるかもしれません。カメラマンもやっぱり好みの女性に対する時には気持ちも違うでしょうからね(笑)。
お世話になったプロデューサーのもとで2年間基礎を積みました
小栗 20代後半になった頃でしょうか、ずっと芸能界の仕事しかしていないし、このままでいいのかなと色々悩んでいました。それでデビューの時から可愛がってくださっているプロデューサーさんに色々相談していたのですが、「じゃあ俺の手伝いやってみる?」と言っていただいて。
その時は女優業もやりながらお手伝いくらいのつもりでしたが、結局、アシスタントとして現場で隣について2年間、基礎からみっちり教えてもらいました。ノウハウもわかってきた頃に、アイドルのムック本を任されたことをきっかけに独り立ちした形です。
── プロデューサーの仕事を始めて、撮られる側の時には気づかなかった発見などはありましたか。
小栗 やはりプロデューサーの仕事は、撮られる側とは違うとは感じます。作り手だけのプロデューサーは、いかに女性を脱がせるかとか、売れるものをどう作るかということしか頭にない人が多いと思うのですが、私は出る側でもあったので、両方の気持ちが分かる。そのうえで“どうしたらいい形で撮影できるか”を考えられるのが私の強みです。
── 今「脱がせる」という言葉が出てきましたけれども、ヌードになることが現場で決まったり、作る側の提案、あるいは説得で薄着になっていくこともあるんですか。
小栗 事前にどこまで露出するかは最初に決めてあります。でも現場で「もう少しこう撮ってみたい」という話が出ることもあります。それは比較的、男性より女性から言った方がいい形で伝わる、ということはありますね。出演者に嫌な思いはさせたくないので、本人とも直接話し合い、お互いがどういう形に作りたいのかを提示して決めていくことがほとんどです。
小栗 どんな理由で脱ぐのかによるんじゃないでしょうか。ただ売れるため、話題にするためなのか、作品的に脱ぐのか。女優さんの中には、映画では脱いでもグラビアでは脱がないという人も多くいるでしょうし、そういう違いは私の中にもあります。
ヌードになるなら作品として撮ってほしかった
小栗 はい、私は独立後、初めてセルフプロデュースした写真集でヌードになりました。誰の依頼でも希望でもなく、自分の意思で。
実はその頃、いろんな出版社数社から「ギャランティ、ウン千万出すので、ヌードの写真集を出しませんか」と口説かれてはいたんです。でもそれは話題性を狙ったものだったのでやりたくなかった。
どうせやるんだったら自分の思う通りの形でやりたいと考えて、自分で一冊ダミーの本を作ったんです。全部モノクロで、カメラマンは沢渡 朔(はじめ)さんにお願いしたいと出版社に持ち込んで出来たのが自分でプロデュースした最初の作品です。自分のギャラは少なかったけれど、3刷りぐらいまで部数も伸びて、本屋さんではアート本の棚にも置かれ評価していただきました。
小栗 その頃もずっと何をしたらいいのか悩んでいたんです。歌をやってみようかなとかも考えたし、事務所を移ったりもしていた。年齢は29歳。30歳になる前に写真集を出すんだったら、思い切って前向きになれるようなカッコいいものやりたいな、と。それで沢渡さんにだったらヌードを撮ってもらいたいと思ったんです。
── 納得のいく世界観をご自身でプロデュースした、「自分のためのヌード」だったんですね。
小栗 はい、自分で決めたことだから後悔もないし、思い通りに作った本が売れたこともうれしかった。数千万のギャラを提示された時は正直心が揺れましたけど(笑)。
小栗 意外に自分には合ってるというのか、楽しいですね。特に今は企画からキャスティングまで全部プロデュースして、最後の工程まですべてに関わり、本が出来上がる。その過程が好きだし、出来上がった本を見るとうれしいですね。
── 17歳でデビューした時は、まさかこんな人生になるとは思わないですよね。
小栗 本当にそうですよね。長くても1年やったら辞めるだろうなって思っていたから。でも事務所の社長が女性で、安心感があったし、色々相談に乗ってくれたこともあり、そのまま続けてこれたのかなと思います。
10代の頃の私を見てもらいたい
小栗 昨年がデビュー35周年だったので、その記念といった意味合いが強いですが、若い時の写真が意外と世に出ていなかったので、デビュー当時から大人になってのものまでをまとめられないかなと思い、出版社に相談して出来上がったものです。
── 掲載されている写真は、出版社もカメラマンもそれぞれに違いますよね。これをまとめるのは大変ではなかったですか。
小栗 私がカメラマン一人ひとりに電話して、会いに行ける人は会いに行って、そうして個人的にお願いをする形でできました。
小栗 やっぱり10代の頃の私を見てもらいたいかな。これは旧代官山の線路の所、それと同潤会アパート。
── ああ〜懐かしい。あの頃の代官山は文化の発信地でしたね。お話を聞いて改めて見たからか、そうした裏側のストーリーを感じるいい写真ですね。
小栗 ありがとうございます。デザイナーさんは紙の質にまでこだわってくれましたから、懐かしさの後押しにもなっているかもしれません。でも今見ても古さを感じない仕上げになったと思います。それを感じていただけたらうれしいです。
● 小栗香織(おぐり・かおり)
9月14日生まれ。神奈川県出身。女優、プロデューサー。1988年に横浜でスカウトされ、同年、としまえん夏のイメージガールでCMデビュー。「11PM」(日本テレビ系)金曜カバーガールとして人気を博す。その後、CM、映画、ドラマなど数多く出演。映画『Love Letter』(岩井俊二監督作品)に出演。この映画により韓国でも人気となり、04年、釜山国際映画祭にゲストとして参加。現在は、女優の他にも歌手として活動するほか、新人タレント、女優、韓流アイドルのプロデュースも手掛けている。主なプロデュース作品に韓流アイドル元超新星ユナクファースト写真集「y」(ワニブックス)、南果歩エッセイ集「乙女オバさん」(小学館)、藤あや子写真集「FUJI AYAKO」(講談社)、安斉かれんファースト写真集「In all♡」(小学館)、奥菜恵写真集「Okina Megumi」(宝島社)他多数。
Instagram/kaori.os_official
『小栗香織35th Anniversary写真集チャーミング』
数多くのグラビアを飾った伝説のアイドル・女優としての小栗香織の軌跡を写真集にまとめた一冊。1988年に17歳でデビュー後発売されたファースト写真集から、2004年発売のラストヌード写真集まで、沖縄石垣島、グァム、タイ・プーケット、サンタフェ、オーストラリア・ケアンズ、ハワイ・ノースショアと生まれ育った湘南など世界各地で撮影された数々の写真集の中から、至極のカットを厳選(未公開カットも含む)。西田幸樹、渡辺達生、小澤忠恭、野村誠一、宮澤正明、沢渡朔(掲載順)といったレジェンドカメラマンたちによって撮影された、懐かしくもあり、今なお輝きを放ち続ける写真の数々を収録した至宝の永久保存版。小学館刊。電子版もAmazon他、発売中!