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2024.12.18

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ジーコ氏はなぜ来日し、日本サッカー界に貢献し続けるのか──『東急こすもす会』の秘密会合に参加してみた

1991年、鹿島アントラーズの前身・住友金属工業蹴球団に入団し、現在は鹿島アントラーズのクラブアドバイザーを務めるジーコ氏。その日本でのキャリアと、今後のビジョンとは? 東急不動産ホールディングスの会員組織「東急こすもす会」での会員限定イベントで語られた、氏の半生をたどります。

CREDIT :

文/木村千鶴 写真/トヨダリョウ 編集/平井敦貴(Web LEON)

「東急こすもす会」のイベントにジーコ氏が登場

ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
▲ 「サッカー界のレジェンドが語る ZICO SPECIAL TALK SHOW」にて、その半生を語るジーコ氏。
サッカー小僧だったオヤジならずとも、1993年のJリーグ開幕を覚えている方は多いでしょう。なかでも鹿島アントラーズ対名古屋グランパスエイトの開幕戦は、ジーコ氏によるハットトリックで鹿島が勝利し、歴史に残る一戦となりました。

当時、ジーコ氏は40歳。ブラジル代表の10番を背負い“サッカーの神様”と称された氏は、36歳で一度は現役引退するも、その1年後に「住友金属工業蹴球団(鹿島アントラーズの前身)」にて電撃復帰。その後、Jリーグ発足とともにアントラーズレッドのユニフォームに身を包み、ゴールを揺らし続けたのです。

そんなジーコ氏が2024年11月21日に開かれた東急不動産ホールディングスの会員組織「東急こすもす会」の会員限定イベント「サッカー界のレジェンドが語る ZICO SPECIAL TALK SHOW」に登壇。ジーコ氏はなぜ日本に来てくれたのか? 彼にとって日本とは? これからの日本のサッカー界はどうなるのか? その半生をたどりながらさまざまな思いを語られていましたので、ここで取材リポートをお届けします!
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私の心の中のセカンドカントリーは日本です

ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
▲ 会場となったのはShibuya Sakura Stage SHIBUYAタワー 38階のグリルダイニング&ミュージックバー「STEREO(ステレオ)」。司会進行にはサッカー解説者の野村明弘さんを迎え、高倍率をくぐり抜けた約40名の「東急こすもす会」のゲストを前にトークショーが行われました。
── ジーコさんはどのような少年時代を過ごされたのでしょうか?
 
ジーコ 私は6人兄姉の末っ子で、小さい時はサッカーを楽しみながら元気にすくすくと育ちました。ただ母親は子どものうちの誰かをピアニストにしたかったようで、最初は姉に、その後は私にピアノのトレーニングを積ませました。私も一度はテレビ番組にも出るくらい上達しましたが、1年くらいでつまらなくなってしまって、サッカー選手になる道を選んだのです。
 
その後、私はサッカー選手になってイタリアのウディネーゼというチームに所属するのですが、その時にオルガンを弾く機会があり、私の演奏を聴いた先生に「あなたの指使いはプロのピアニストと同じですよ」と褒めていただいたことを覚えています。
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── ジーコさんは現役引退後、当時まだプロリーグがなかった日本に来られて、「ジーコ・イズム」を鹿島アントラーズ、そして日本サッカー界に与えてくださいました。そのジーコ・イズムはどのように皆さんに伝えてこられたのでしょうか。

ジーコ 1988年にフラメンゴ(ブラジルのサッカークラブ)の一員として、日本代表とプレーをした経験があります。その時はまだ日本のサッカーチームはアマチュアでした。

私は36歳で現役引退をした後、ブラジルでスポーツ大臣を務めていましたが、1991年に鹿島アントラーズ(※当時住友金属工業蹴球団)からオファーをいただき再び来日しました。鹿島からは当初、3年契約を提案されましたが、自分自身、膝の怪我で充分にプレーできるかどうか自信が持てなかったので、まずは3カ月間、様子を見る機会を設けてもらいました。そして特に問題がなかったためそのまま日本に残り、日本リーグ2部で試合に出場。Jリーグへの加盟後は(1994年の)ファーストステージまでプレーを続けました。

私が日本に来た理由は、「日本のサッカーをプロ化させたい、その貢献に携わってほしい」という願いを受け、それに応えたかったからです。そのため、プロクラブの経営、運営、育成に関することなど、すべてにおいて自分が持っていたこれまでの経験を伝えてきたつもりです。それがジーコ・イズム、ジーコ・スピリットとして形作られて、残ったのではないかなと思います。
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ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
▲ ジーコ氏を囲んでのトークショーの後、参加者には特別なディナーが振る舞われました。
ジーコ 私が初めて鹿島に来た時には、芝のグラウンドもなく、ロッカールームもなかった。今では当たり前になった専属の理学療法士やチームドクターもいなくて、グラウンドで誰かが怪我をしたら直接病院に行かなければなりませんでした。
 
私自身のことで言うと、当時鹿島にはインターナショナルスクールがなく、息子を東京のインターナショナルスクールに通わせるため、家族とともに東京に住んでいました。そのため毎日鹿島の練習グラウンドまで、バスや電車を乗り継いで片道2時間半をかけて通っていたのです。これは大変な苦労でした。
 
鹿島で引退をした後は、1995年から2002年まで鹿島アントラーズのテクニカル・ディレクターを務めさせていただきました。そして2002年から2006年まで日本代表の監督を務め、その後少し間を置いて2018年にまた鹿島アントラーズに戻って仕事をしています。そのため通算にはなりますが、日本に滞在して今年で21年になります。
 
私の父親はポルトガル系の移民だったので、私はブラジルとポルトガルの2つのルーツを持っています。ですが、私の心の中の本当のセカンドカントリーは日本です。そう思うくらい、日本の方たちにはたくさんのことをしていただきました。皆さんとても温かく私に接してくれるし、何に対しても温かみを持って行ってくれる。その気持ちが私の心の中に今も強くあります。
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日本のサッカー界に携われたことを誇りに思っています

ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
── これまでジーコさんの半生を語っていただきましたが、今後のご自身の目標はありますか?

ジーコ 私は1985年に大きな怪我をしました。その怪我以来、膝の手術を6度も行っていますが、今でもその痛みが残り、歩くことにも不自由さを感じています。ですので来年7回目の手術に踏み切り、膝に人工関節を入れて、その後の人生、ライフスタイルをより良いものにしようと思っています。
 
ただ、膝は今こういう状態なんですけど、その痛みを忘れられるくらいサッカーが好きなので、今でも鹿島に来たら草サッカーをしていますし、ブラジルに帰った時も楽しんでいるんですよ。
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── 今、サッカー日本代表は史上最強とも言われていますが、今の日本代表と今後の日本代表にどんなことを期待していますか?

ジーコ 今の日本代表は強いと思います。選出されている選手を見てもほとんどが海外で活躍していますし、その選手たちがまた日本に戻ってきて日本のサッカーの質を上げているという好循環があります。ですが大切なのは“今だけ”強いのではなく、このサイクルを次の世代にも引き継ぎ、しっかりと強い日本代表を作り続けていくことです。

そしてもう一つ、歴代最強と言ってしまうのも少し公平さに欠けると感じています。なぜなら過去と今ではサッカーをする環境そのものが違います。選手たちは今、充実した環境の中でトレーニングや試合ができていますが、それは過去に先輩たちが切り拓いた道があるからこそ。それを忘れないで、と今の選手たちには伝えたいです。そして、この資源を生かして強くなっていきなさい、と。
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ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
── 今後の日本サッカーについて思うことは?

ジーコ 今、日本のサッカー界は、プロとして活躍する選択肢がたくさん増えています。そこには海外でプレーすることも含まれますので、日本のいい選手、タレント性を持っている選手がどんどん世界に出て行っています。その一方、そういった選手がJリーグに残って活躍をしていないところに寂しさを感じています。せっかく下部組織の中で育ち、これから開花するという時に海外に出てしまう、それをもう少しJリーグに引き止めたいのが私の正直な気持ちです。
 
また2011年の東日本大震災以降、多くの企業で収入、収益の面でダメージがありました。そのためサッカークラブへの投資が少なくなり、いい外国人選手をJリーグの中で見ることが少なくなったようにも思います。それでも、誰もが知っている、スタジアムに行って生のプレーを見てみたくなるような外国人選手を連れてきて、Jリーグが開幕した時のような勢いをもう一度見てみたいなと思います。

── これからのグローバルな社会に巣立っていく若者たちに、何かメッセージがあればお願いします。

ジーコ 今の子どもたちはサッカーだけじゃなくたくさんのスポーツをする機会があると思います。スポーツは自分を豊かにし、楽しみを増やし、喜びを与えてくれるもの。その中でどのスポーツが自分に合っているのか、また続けていけるのか。そして続けていった場合はトップを目指して結果が出るまで、最後まで頑張ってもらいたい、というのが私の気持ちです。

ただブラジルを例に出すと、14歳や15歳でプロになる選手も多く、彼らはサッカーだけしかせず、学校に行かなくなってしまいます。しかしながらサッカー選手であることは人生の一部であって、残りの人生を考えた時には、その後の人生の方が長いわけです。

そのため若い人たちには学業も並行して続けて、サッカー選手の次の人生をどう送るのかを考えてもらえたらと思います。私自身、大学を卒業したアスリートプレーヤーでしたので、若い人には私の後に続くような人生を送ってほしいと願っています。

── 最後にひと言、ジーコさんの今後の夢をお願いします。

ジーコ 私は日本のサッカー界に携われたことを本当に誇りに思っています。Jリーグが発足し、プロ化してからの日本代表はずっとワールドカップに出場し続けています。そして最近の日本代表を見ると、常にいい戦いをしていますので、ワールドカップでタイトルを取る日も近づいてきているのではないか、というのが私の率直な意見です。
 
私自身もこれまでたくさんの夢を叶えることができました。そのうえで、今後どういった個人的な夢を叶えたいかと言うと……最近タイトルから遠ざかっているので、ぜひ鹿島アントラーズには優勝してもらいたいですね。
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トークショーは絶景レストラン「STEREO(ステレオ)」にて開催

会場となったグリルダイニング&ミュージックバー「STEREO(ステレオ)」は渋谷駅隣接のShibuya Sakura Stage SHIBUYAタワー38階に店を構えます。専用のエレベーターで上がると、そこに広がるのは別世界。渋谷の街、いえ東京の絶景が一望できる特別な空間です。今回、トークショーの最後には一組ずつジーコ氏との記念撮影が行われ、宴もたけなわで後半戦の食事会へと突入しました。
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ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?
この日のメニューは同店自慢のディナーコース。フレンチをベースに、中東や和食の要素を取り入れた多国籍な料理が楽しめました。「マグロの切り身」に添えられた「ワカモレ」に「べったら漬け」、メインの「鴨肉のステーキ」には「ピスタチオのカード」と、どれも意外な組み合わせなのに、なるほど、と抜群にマッチ。特別な夜には、こんな特別な料理を楽しみたいもの。渋谷の夜景を楽しみながらオトナのデートを楽しむなら「STEREO(ステレオ)」がイチオシです。
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ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?

「東急こすもす会」

「東急こすもす会」は東急不動産ホールディングスが運営する会員組織。同社のグループ企業を通じて不動産等を購入、または売却した方に会員資格が付与され、さまざまな優待サービスや特典を受けることができます。その一環として今回のような会員向けイベントも毎月開催中。応募当選者はなんと無料で参加することができます。東急不動産ホールディングスグループでご自宅などをご購入された方はもれなく会員資格を保有していますので、「東急こすもす会」をどうぞお見逃しなく。

写真:ジーコ氏(左)と東急不動産ホールディングス代表取締役社長・西川弘典氏(右)。
https://www.tokyu-cosmos.jp/

動画でもお届け

ジーコ氏はなぜ来日し、日本のサッカー界に貢献し続けているのか?

ジーコ(本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ)

ブラジル出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ブラジル代表の背番号10番を背負い、 “サッカーの神様”として世界中のファンを魅了。一度の現役引退後、ブラジルのスポーツ担当大臣などを務め、1991年に当時プロサッカーリーグがなかった日本で現役復帰。現在の鹿島アントラーズの前身である住友金属工業蹴球団に加入し、鹿島アントラーズの立ち上げに、プレー面、さらには精神面でも大きく貢献した。現在は鹿島アントラーズのクラブアドバイザーを務める。

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