2017.06.15
黒澤明は「雨」に何を託したかったか -映画と雨の深い関係-
窓のガラスを激しく打ち、路面が白く浮き上がるような雨を見るたび、思い出す映画がある。それは黒澤明監督の名作『七人の侍』。終盤の、村を守る侍や農民たちと、野武士たちとの死闘。雨は激しく、地面は沼のようになる中で戦いが繰り広げられる。実はこのシーンの魅力を思い知ったのは最近で、ブルーレイになった『七人の侍』を見てからである。それ以前、ビデオで見た本作は、アクションシーンはなにやら暗く、雨ではなく水の中でのたうちまわっているように見えたものだった。2016年には4Kの『七人の侍』が公開されたが、その臨場感はさらに高まっているのだろう。
- CREDIT :
文/原 裕 Hiroshi Hara
すべてを「水に流す」雨
戦い終わって、農民たちの田植え歌が響く様子を見て、軍師役の志村喬が「今回も負け戦だったな」と呟く。戦いに明け暮れその中でしか生きられない(死ねない)侍の悲哀がまず感じられるが、そのシーンを幾度か見ているうちに、「水に流す」という言葉を連想したのだ。
そう考えると、三船敏郎演じる、人一倍武士への思いが強い菊千代が、劇中あっけなく斃れるのも、どこか納得できる。
「雨」に解釈などいらない
イメージというのはこの場合画像そのものと解釈できる。タルコフスキーは映画とは解釈する(または解釈を求める)以前に、イメージそのものであるべきとしている。タルコフスキー映画には雨の情景が多数登場するが、彼はその雨についても自著で次のように語っている。
「いわば雨は私が育ったあの自然の特徴なのだ。ロシアでは、長い長い愁いに満ちた雨がしばしば降る。〈中略〉雨、火、水、雪、露、地吹雪、これらは私が住んでいるあの物質的な環境の一部であり、言ってみれば、人生の真実である。
それゆえ人々がスクリーンに愛着をもって再現された自然を見るとき、彼らが単にその自然に愉悦するのではなく、そこになにか隠された意味のようなものを見出そうとするというのを耳にするのは、私にとって奇妙なのだ。
もちろん、雨のなかにただ悪天候だけをみることができる。だが私は、たとえば雨を利用しながら、ある意味で映画の行動がそのなかに浸っている美的な環境を作ろうとしているのである。しかしながらこれは、私が映画のなかで自然がなにかを象徴するという使命を授けられているということを全然意味しない」
現代に降りそそぐ雨
このシーンが『七人の侍』を下敷きにしていることは容易に類推できる(ご丁寧に劇中には「ミフネ」という役も登場する)。
ゆえに、ここでの雨は黒澤やタルコフスキー作品の雨とあまりに違い、隙はないがアンリアルで、それでいて軽く、表現の芯のようなものを感じさせない。もっとも、現実世界から瞬時に「離脱」しネットの世界を並行して楽しむ現代における映画のあり方としては、それもまたひとつの帰結なのかもしれない。
● 原 裕(Hiroshi Hara)
15年間メンズライフスタイル誌の編集部で音楽や映画などの分野を担当。その後フリーエディター&ライターとして、ファッションからカルチャー、ライフスタイルまで幅広いジャンルで活動している。