2017.10.13
成功者のボクがワインを造る理由【前編】
実業家、脱サラ後のセカンドライフ、趣味……三者三様の「ワインを造る理由」とは?
- CREDIT :
文/秋山 都
かつて大財閥のロスチャイルド家がシャトー・ラフィットやシャトー・ムートンを我が物にしたように、欧米では自分のワイナリーを持つことは最高のステイタスとされ、成功者の証のようにも言われています。でも、なぜワイン造りがそれほど人をひきつけるのか?
ここではワイン造りに取り組む3人の日本人に話を聞きました。三者三様のスタイルから、彼らがなぜワインを造るのか、その魅力が見えてくるようです。
辻本憲三さん(カプコン創業者、CEO)
辻本さんはワイン好きが高じてナパ・ヴァレー(カリフォルニア州)に470万坪(東京・中野区とほぼ同じ広さ!)ものワイナリー「KENZO ESTATE」を作ってしまった、ワイン業界でも有名な人です。
2008年に初リリースされた「紫鈴(りんどう)」「紫」「藍」と名付けられたワインは、予約がなかなかとれないレストラン「フレンチ・ランドリー」(ナパ・ヴァレー)のワインリストに加えられたことでも話題になり、日本人が生んだ“ナパの奇跡”と称されました。
と、書けば数行で終わってしまいますが、実際のところワイン造りは簡単には進まず、1990年に決意してからワインをリリースするまで実に18年もの月日が必要だったのでした。
「そもそもカプコンでは、アメリカでの成功を機に、ビデオゲームの会社という企業性格から、ユーザーをインドア志向にさせているといった無用なバッシングを受けないよう、並行してアウトドア向けの事業を展開しようと準備していました。
そこで、ロサンゼルス五輪の公式練習場があったナパ・ヴァレ-の山間部に、470万坪の敷地を購入し、乗馬のテーマパークを開発しようとしていたのです。
しかし、収益性が見込めず、その計画は頓挫してしまい、その広大な敷地だけが宙に浮いてしまったため、会社の負債を補うため、やむを得ず、私がその荒野同然の土地を買い取ったのが、事の始まり。
もちろん、最初は、そんな広大な土地の使い方など思いつくはずもありませんでした。しかし、ある時、ワイナリー関係者から、『敷地の一部を畑として使わせてほしい』とか『敷地内の湧き水を使わせてほしい』といった依頼が次々と来るようになったのです。
未開の山林でしかないと思っていたこの場所が、実はブドウ栽培において、大きな可能性を秘めた環境であったことに気付かされたのです。
私は、昔からものづくりが大好きでして、ナパ・ヴァレーのワインにも以前から愛着を持っていました。そうなると『自分の手でワインを造ってみたい』という情熱がムクムクと湧き上がってきて。
それが、この地で自らのワイナリーを立ち上げ、世界最高峰のワインづくりを目指す、私の長い挑戦の始まりとなりました。
―まず、なにから始めたのでしょう。
「470万坪もの広大な敷地の中から、ブドウ栽培に最適だと思われる場所を探すことが、第一歩でした。敷地には、豊かな緑に覆われた山々が広がっています。私は、その環境を壊すことなく、美しい大自然の中で、純粋なブドウを作りたいと考えていました。
ですから、ブドウ栽培を始めるにあたって、畑として耕す場所はごく一部の場所に限る必要があったのです。結果的に、レオマレイクという湖に程近い、日当たりの良い丘陵地に12万坪ほどの畑を開墾していったのです。敷地の総面積のわずか2.5%ほどだけを畑にしていきました。
同時にワインの勉強も始めました。世界最高峰のワインを自らの手で造り出していこうと考えてから、私は、タッグを組んだブドウ栽培家のデイビッド・アブリューと、あることを約束していました。
それは、世界中の良質なワインを飲み比べて、自分が本当に美味しいと思える味わいを見つけておくということ。そこで私は、1万円以上の値段のワインを世界中から買い揃えていきました。その数、トータルで1万本。
それらを友人たちとともに、目の前にいくつものグラスを並べ、ダブル、トリプル・テイスティングしていくのです。ワインというものは、何種類かを同時に飲んでみると、味わいの違いがよくわかるものです。
そして、人間というものは現金なもので、同時に何種類ものワインを飲み比べていくと、自ずと美味しいワインからなくなっていくものなんです。そうやって、ワインの美味しさを見つけ出していくのって、どこか楽しいでしょう?」
―1万円以上のワインを1万本…ということは1億!? ワイナリーを造るのにはずいぶんお金がかかったのでは?
その後、2000年には、14万本ものブドウを収穫しましたが、2001年、今もタッグを組む栽培家デイビッド・アブリューと出会い、彼の指摘を受け、それまでのブドウの苗をすべて抜き取り、土壌を掘り返して、地中に散らばっていた大小の石をすべて砕き、サラサラの土壌に作り直してから、改めて畑を耕すという作業を行いました。
健康で良質なブドウを栽培するためには、このやり直しの行程がどうしても必要だったのです。
ワイナリーそのものは、2010年7月に、テイスティング棟が完成し、ビジターの受け入れ体制を整えて、グランドオープンの日を迎えました。ここまででも20年越しのチャレンジだったわけです。
今年で、『紫鈴』『紫』『藍』の3種はちょうど10回目のヴィンテージを数えます。しかし、ケンゾーエステイトのヒストリーは、まだ始まったばかりです。この事業を何百年と続くものにしていかなくてはなりません。
「ないと困るというものではありませんが、あればちょっと人生が愉しくなる。ワインとはそういうものではないでしょうか。またワインを造るようになって私自身の生活も変化しました。
ワイナリーを指揮するために、ナパ・ヴァレーと日本をひんぱんに行き来するようになり、次第に、ナパ・ヴァレーにおける自分のあり方を見つめ直すようになってきました。
そもそも、ナパ・ヴァレーなどという場所は、ワインの名産地となる田園地帯といえば聞こえはいいかもしれませんが、村内の縛りが厳しい田舎なのです。
私がケンゾーエステイトのワイナリーを造り、運営していけるようになったのも、そもそもナパ・ヴァレーの人々が日本人である私を村内のメンバーとして受け入れてくれたからこそ、できたことなのです。
私はそのことにとても感謝をしており、私という外国人を受け入れてくれた地元に何か貢献していかなくてはならないと考えるようになりました。
カプコンの事業だけをアメリカで展開しているときには、ここまでの気持ちにはなれなかったでしょうね。ですから今、私は、ナパ・ヴァレーの医療や子どもたちの教育支援などのサポートに力を注いでいます。また、ナパ・ヴァレーの観光を支援し、日本からの訪問者も増やしていきたいと考えています。
私の良き理解者でもあった故、マーガレット・モンダヴィさんは、私に、ナパ・ヴァレーで本格的な日本料理店を開くべきだと訴えました。『日本とナパ・ヴァレーの文化交流の架け橋をかけられるのは、ケンゾー、あなたしかいない』と言われたのです。
残念ながら、マーガレットさんは、昨年亡くなられてしまいましたが、私は、彼女の言葉をしっかりと脳裏に刻み、昨年末に、ナパ・ヴァレーのダウンタウンに日本料理店を開業しました。
これからもさらに様々な日本文化をナパ・ヴァレーに発信していきたいと考えています。私にとって追い風となる動きもあります。11月に開業する新しいホテル『Archer Napa』では、ナパ・ヴァレーで初めて、日本人コンシェルジュが起用され、日本語対応が可能となりました。
少しずつ日本とナパ・ヴァレーが歩み寄っていることを実感します。そして、微力ながら、そのお手伝いをできていることを誇らしく思えるのです。天国のマーガレットさんに見守られているような気がして」
辻本さんのお話から見えてくるのは、単純にワインが好きだから作ってしまおう、というワイン愛や勢いだけではありません。大地や自然といった自分の思いのままにならない不確定な要素をも楽しみ、ビジネスセンスをもってドライブしていくというある種の使命感と厳しさが感じられます。
いまもっとも重要なのは「生産段階(ワイン造り)」より「販売段階」だということからもそれは明らか。
ワインは抜栓して、飲んでいただき、空瓶になったからもう1本飲もうかという需要を生み続けていかなくてはなりません。
それが上手くできないワイナリーが多いのです。ですから、私は、ケンゾーエステイトのワインを日常的に飲んでもらうための工夫を凝らしています。
直営店を展開し、すべてのワインをグラスで飲めるような場所を作り、すべてのワインでハーフボトルを設計し、ちょうどフルボトルの半分の値段で販売して(注:ハーフボトルはフルボトルより割高に設定されるのが一般的)、少しでも日常的にケンゾーエステイトのワインを愉しんでいただくように努めているのです」
今年を喜寿を迎えるという辻本さんですが、そのワイン造りの実態は、イノベーティブなアイデアや実行力に富んだ非常にリアルなビジネスでした。まだまだこれからも続く、ケンゾーエステイトのイノベーションがますます楽しみです。
続く後編は、広告代理店を早期退職してブドウ畑へ飛び込んだワインメーカーと、グラフィックデザインの傍らワイン造りに熱中するデザイナーが登場!
「成功者のボクがワインを造る理由【後編】」につづく。