◆ 伊丹十三編
伊丹十三の“本筋”ワードローブ
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〝伊丹十三〟とは、いったいナニモノなんだろう?
「一流」にこだわりつくした、ヤング伊丹スタイル
当然のごとく、60年代のファッション誌はこぞって伊丹十三の特集を作っているのだが、そのスタイルがまたすごい。自身が所有する世界の一流品でファッションページをつくった『HEIBON パンチ DELUXE』(1966年VOL.1)では、オーストリア製の真っ赤なチロリアンジャケットに、ブラウンのコーデュロイパンツ、『ヨーロッパ退屈日記』で言及した「ドッグシューズ」と思われる、スエード靴というコーディネートを披露。当時の日本では「セレクトショップ」という概念すらなかったことを考えると、早すぎたミックスコーディネートというよりほかない。
ただし、単なるブランド信仰でないところが、伊丹スタイルの男前たるゆえん。せっかく手に入れた一流品だからと、カバーをかけて後生大事に扱うような行為を、伊丹十三は何よりも嫌った。数百万円するビキューナのコートだろうと平気で芝生の上に寝転んだし、「ロータス・エラン」のボディについた猫の足跡を、〝これぞ芸術品〟と喜んだ。そして財布の中に百円玉一個しかないときは、世界最高の消しゴムを探そう!と読者に呼びかけた。彼にとっての一流品とは、必ずしも高価なものとは限らなかったのだ。
ヒッピーカルチャーの影響で、アーミールックに開眼
「ロータス・エラン」もあっさり手放し、中古の「ジープ」を手に入れるなど、そのイメージはすっかり変わってしまった。1971年に出版された雑誌『NOW』のなかで、彼はその変貌がヒッピーカルチャーからの影響によるものだと語っている。いわゆるアーミールックは、行き過ぎた消費文化に対するアンチテーゼであり、高いものを身につけるお洒落の時代は終わった、とも。
ヒッピームーブメントの終焉後も、伊丹十三の精神世界への傾倒は続き、1981年に自ら創刊した雑誌『モノンクル』として、結実することになる。編集長時代の伊丹十三の写真を見ると、「L.L.BEAN」か「エディー・バウアー」と思しき迷彩のハンティングジャケットを着ているのだが、それもまた実にかっこいい。
晩年のトレードマークは、チャイナジャケットと刺し子の半纏
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そんな思想の深まりとリンクするように、1980年頃から伊丹十三が身に着けはじめたのが、刺し子の半纏やチャイナジャケットといった、東洋趣味のワードローブである。前者は白洲正子が経営していた「こうげい」などで、後者は麻布十番のテーラー「池田屋」(どちらも現在は閉店)で仕立てていたという。愛用していた「ルイ・ヴィトン」のバッグは、盛岡にある「光源社」のかごバッグや、印傳の巾着袋に取って代わった。もちろん、どれもうなるほどの高級品。これらを「ボルサリーノ」のソフト帽や、「ステファンケリアン」のスリッポンなどと合わせるのが、後年のアイコンとなったスタイルだ。
戦後誰よりも早くヨーロッパの一流に触れた若き天才は、精神世界への傾倒とともにヒッピーファッションに変貌し、最後は東洋の美に回帰した。それが伊丹スタイルの概要というわけだ。
〝本筋〟を追い求めた64年の生涯
伊丹十三のスタイルは、真似たくなるほど男前である。でもただ真似ただけじゃ、絶対に男前にはなれない。すべての〝まがい物〟を拒否し、〝本筋〟を追求する覚悟が伴ってこそ、単なるファッションはスタイルへと昇華する。