2021.10.22
作家・本谷有希子「笑ってる時って、人は油断してますよね。そんな時にサソリのように刺してくる表現に惹かれるんです」
コロナ禍によって人と人とのリアルな繋がりが大きく毀損され、コミュニケーションは大きな危機を迎えています。でも、こんな時だからこそ、我々オトナはいい笑顔を忘れてはならない。そんな思いを込めて皆で笑顔について考える特集です。今回は劇作家・小説家の本谷有希子さんに話を伺いました。
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文/牛丸由紀子 写真/内田裕介
何者かになるために。あえて笑顔を封印した学生時代
本谷有希子(以下、本谷) 本当は写真が苦手なんです。撮影となると、顔がこわばっちゃう。だから写真を撮られる時はそれをごまかすために、自然な表情になるように、笑ってほぐしているんです。
── それはぜんぜん気づきませんでした。
本谷 実は昔、全然笑わなかった時期もあったんです。高校卒業してすぐ上京し、芝居の学校に通っていた時のことなんですが、当時は田舎者であることを東京の人になめられまいとして、寡黙な印象を捏造して、基本的に無表情で過ごしてたんです。ところが、実は学校のみんなにはしっかりばれてて(笑)「あいつ、スカしてんな。無理して格好つけてんな」って笑われてたのに、知らないのは自分だけ。もう本当に恥ずかしかったです。自分を自分以上の何かに見せようとしてしまったこと、しかもそれがみんなに見抜かれてたことに、恥ずかしさで悶えました。それ以来、もう自分を自分以上に見せるのはやめようと思ったし、表情も抑制しなくなりました。
── 今は笑顔でいようと自ら心掛けているのでしょうか?
本谷 心掛けているわけではないんですが、もともといろんな物事を面白がって見ちゃうところがあるんです。普段の何気ないことも、ふと違う視点で見ると面白いなって感じることが多いので、ひとりでなぜか笑ってるというのはありますね。だから、こういう自分のインタビューの文章を読むと「(笑)」の文字が多くて、そんなに笑わなくていい時も笑ってるんだなって感じることもあって。なんとなく、発言の真剣さをごまかそうとしたり、自信がない時に笑っちゃうのかな? 笑うことで発言の信憑性が薄れたり軽くなったりしてしまうから、本当は笑わずにすむ時は笑わないでいた方がいいなと思うんですけどね。
あらゆる感情を包む「笑い」の複雑さが好き
本谷 もともと「笑い」って複雑で、その中にはあらゆる感情が入っていると思うんです。本当に純粋な笑顔もあるし、社交的な笑顔や含み笑いだってある。泣いたり怒ったりというシリアスな感情は割とシンプルだけど、もっと複雑な感情が「笑い」なんです。
以前何かで読んだんですが「笑顔という明確な表情を持っている動物は、イルカと人間だけだ」と。イルカの場合は、人間が勝手に「笑顔」だと決めつけているだけですが(笑)。それを読んで、笑いには高い知能が必要なのと同時に、何か人間のずるさもあるんじゃないかと思ったんです。いい笑いだけではなく、さげすんだ笑いや作り笑いなど、嫌な笑いもいっぱいありますよね。そんな人間っぽさとあらゆる感情を包む「笑い」の複雑さって、本当に奥が深いと思います。
俯瞰から眺めれば、滑稽さが見えてくる
本谷 常に自分の中に、すごく主観的な自分と客観的な自分がいるんです。カッコつけようとしている自分を引いたところから見て、なんて滑稽な生き物なんだろう、なんて自意識の高い生き物なんだと思って笑ってしまうような。だから小説でも、シリアスな物事をそのままシリアスに伝えるっていうことにすごく抵抗があるんです。それだと、物事の一面しか見せられない。
シリアスな物事も俯瞰から眺め、滑稽な現象として見るというところまで描いて初めて、ひとつの側面だけじゃなくて、多面的に物事が表現できるんじゃないかと思っています。だから、「私」っていう一人称で始まってのめり込む小説よりは、今回の「推子のデフォルト」のように「推子は……」という3人称で書くことが多いんです。神のような存在じゃないですけど、こういう滑稽なことを人間がしていますよっていう視点で人間や社会を描いて、作品と距離を取っているんです。
惹かれるのは、突き放した笑いの向こうにある怖さ
本谷 だから、笑って本を読んだり芝居を見ていたはずなのに、ある瞬間にふと怖くなる。その矛盾するはずの感覚が混在している状態で、作品世界に触れてほしいなと思っています。「これはあなたのことですよ」と書き出されるよりは、こんなイヤな奴いないよねって読んでいたのに、その中に自分が共感できる部分を発見してドキリとする。読者とそういう近づき方ができたらいいなと思っています。
── ご自身が物事を俯瞰からみる視点は昔からでしょうか?
本谷 昔からですね。子どもの頃もヒーローが怪獣を倒した後、その壊滅してる町でどれぐらいの死者が出たんだろうとか、これで生活が変わっちゃった人がいるんじゃないかとか、想像するのが好きでした(笑)。ハッピーエンドの裏できっと泣いてる人がいるはずと、ダークサイドの方が気になりましたね。
あとは多感な時期に読んだ、小説や映画の影響もあるかもしれません。カート・ヴォネガットJr.の作品全般、例えば『スローターハウス5』みたいにおもしろおかしく書きながら、実は物事の真実に近づいてるんじゃないかと思わされる小説や、喜劇で社会風刺をするチャップリンの映画も、『独裁者』がわかりやすいですが、声高に「これが悪い!」というより、よっぽど知的でユーモアがあり伝える力も強い表現になっていますよね。最初から「泣けます」(笑)とか意味ありげに言われるのは好きじゃないんです。それこそ笑ってる時って、人は油断してますよね。そんな油断している時にサソリのように刺してくる表現に惹かれるんです。
不可避な感情を顕在化させるのが小説の役割
本谷 逆に今は、これを笑ってはいけないとか、楽しんではいけない、あるいは言葉にしちゃいけないということがすごく多いじゃないですか。でも言わないからって、その物事やそういう事象が“ない”ことにはならない。必ずそこには“ある”わけですから。じゃあそれを顕在化させたり、可視化させたりするにはどうすればいいのか。それを私は「小説」という手法で伝えたいんです。
決して災害を楽しみたいわけではないけれど、災害に備えて防災グッズを買い込んでいる時の自分のそわそわした感じは何かに似てる。そうだ、遠足の前の晩の感じなんだと気づくわけです。でも人間が抱くその感情は“なし”にはできないから、それを小説の中で保存していけたらいいなと思うんです。
── その感情をないことにしてはダメだと伝えたいということでしょうか?
本谷 いえ、いいとか悪いという判断ではなく、ただ、そういう感覚が実際にあるんだということを描きたいんです。読者に「それはダメだ」といったら、“メッセージ”になってしまいますから。
小説は答えを出すものではない、と私は思っているんです。小説を読んで何かがわかるのではなく、小説を読んだことで何かがもっとわからなくなるのが理想。人間って何だろうとか、常識ってなんだろう、現代社会って何だろうと、確かだと思っていたものが根底からぐらつくような小説であればいいなと思っています。
ハッピーエンドでありバッドエンドでもある表現に
本谷 そうですね。相反する感情とか、ハッピーエンドに見えるけれどバッドエンドにも見えるとか、観る人によってどちらとも捉えられる構造にしたいと思っています。まわりが絶対これは不幸だという状況でも、本人だけが最高にハッピーだったら、それって実は幸せなんじゃないか? じゃ幸せって何なんだろう? と、考えさせられたり、わだかまりがもっと強くなったりというのが、好きですね。
── 本谷さんが小説を書く上で、“笑い”はこれからも大事な要素ですか?
本谷 大事にしていきたいですね。この前ある人から「自分の中で何が大切か」と聞かれて、素直に出た言葉が「洒脱さ」。やっぱりシリアスな事よりも、最後は笑い=ユーモアが勝つと思っているんです。
笑いは泣いたり怒ったりすることよりも、いろいろな複雑なことが入り混じる。人のことだと思って笑っていたのに、自分のことだと気づいてふと笑えなくなる、そんな瞬間も好きですから。でも主観的になり過ぎないように、どこか常に引いて俯瞰から眺めることで、この事柄ってつまりどういうこと? と疑問をもったり、一生懸命にやっている事柄も、関係ない人にはただただオモシロイコトに見えているはずと思える視点は、これからも無くさないようにしたいと思います。
●本谷有希子(もとや・ゆきこ)
1979年、石川県出身。2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。主な戯曲に『遭難、』(鶴屋南北戯曲賞)、『幸せ最高ありがとうマジで!』(岸田國士戯曲賞)などがある。主な小説に『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』、『生きてるだけで、愛』、『ぬるい毒』(野間文芸新人賞)、『嵐のピクニック』(大江健三郎賞)、『自分を好きになる方法』(三島由紀夫賞)、『異類婚姻譚』(芥川龍之介賞)、『静かに、ねぇ、静かに』など。近年、著作が海外でもさかんに翻訳され、『異類婚姻譚』『嵐のピクニック』を始め、様々な言語で出版されている。英語版は The New Yorker、New York Timesなどで大きな話題となった。
HP/劇団、本谷有希子
HP/「よく笑うひと(LEPSIM)」