2023.10.08
昭和のクルマ好きたちが送った華麗なるエンスーライフとは?
1960年代、筆者が20代の頃の自宅はクルマ好きの溜まり場だったそう。10歳年上の兄の友人たちは錚々たる外国車、筆者とその友人たちは主に国産車を所有し、皆で熱く語り合い、クラブを作って、ときにジムカーナやヒルクライムを楽しんだと言います。
- CREDIT :
文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第219回
1960年代、、わが家はクルマ好きの溜まり場だった!

というより、「クルマ好きの集まり」といった方が正しい。とくに、1963年の第1回日本GP、1964年の第2回日本GPを経験した後の熱量の上がり方はすごかった。「クルマの話、レースの話以外は通じない」、、そんな雰囲気になってしまった。
兄は僕より10歳年上なので、当然友人たちの年齢構成も上になる。30歳から50歳くらいまでの幅広い年齢層だった。
僕の友人たちはほぼ20歳前後。昼は学生、夜と休日は「クルマ漬け?」といった日々を送る、、そんな連中ばかり。
兄の仲間たちは、持っているクルマもすごかった。ヒーレー3000、ポルシェ356、356カレラ2、TR4、スペシャルチューンド TR4、ロータス エラン、ミニ クーパーS、、一風変わったところでは、バンデンプラ プリンセス リムジン! もあった。国産車は1台もない。
ただし、フォード タウナス、ミニ クーパーS、MGB、コルチナ ロータス等、輸入車もあった。とくに、コルチナ ロータスはどこでも注目の的だった。
中高年グループは当然仕事を持っているわけだが、会社オーナー、地主、金融業、自動車販売業、高給サラリーマン、、と多種多彩。
ちなみに、上記バンデンプラ プリンセス リムジンの持ち主は金融業(金貸)で、そうとう羽振りはよさそうだった。「俺から金を借りるようになったらもうおしまい。だから、俺は知り合いには絶対貸さないよ」との言葉は、今もはっきり覚えている。
クルマ好きでもないだろうに、親の知り合いでよく遊びにきていた右翼の大物も、なぜか輪の中に入って楽しげに話していた。
当時のクルマ好きたちはよくクラブを作っていたが、わが家を拠点にした2つのグループもクラブを結成。中高年グループは「ジョイントクラブ」、若者グループは「チーム8(エイト)」と名付けた。
「ジョイントクラブ」というクラブ名の由来、、確かめたわけではないが、「みんなで集まって楽しくやろうよ!」くらいのものだったのではないか。人数は15人くらいだったかと思う。
「チーム8(エイト)」というクラブ名の由来は単純で、クラブ発起人が8人だったから。でも、8人の中から2人のワークスドライバー(トヨタ)が生まれ、他にも、メーカーから勧誘されたが断った者が2人いた。
で、僕はというと、その頃乗っていたMGA、MGBともに遅く、まったく勝ちは望めなかった。同時期に、生沢徹もMGBに乗っていたが、ジムカーナでは大苦戦していた。
上記のようにチーム8は少人数のクラブだったが、けっこう人脈は広く、とくに、トヨタ直系のTMSC(トヨタモーター スポーツ クラブ)とは強い繋がりがあった。
そんなことで、TMSCの力を借りて、ジョイントイベントを開いたりもした。
TMSCの力は絶大で、トヨタと日野のワークスチーム メンバーが、ワークスカー? で出場してくれた。トヨタのエースである式場宗吉が、シャコタンのクラウンでジムカーナに出場する!? って、想像もつかないだろう。
このイベントは多くの自動車専門誌等で取り上げられ、チーム8の名は「かなり知れ渡る」ところまで押し上げられた。
1963年の第1回日本GP以前、、チーム8のメンバーは、週末になると、湘南へ、箱根へ、日光へ、、ドライブに行くことが多かった。ほんとうによく走った。
一方のジョイントクラブは、仕事の関係もあってか、あまり遠乗りはやっていなかった。でも、時々、横浜とか鎌倉辺りで集まり、贅沢なランチを、、といった「おじさんクラブらしい楽しみ方」をしていた。
しかし、日本GP以後、チーム8の週末の過ごし方はガラリと変わった。鈴鹿通いが始まったのだ。これにはジョイントクラブの一部メンバーも加わったが、土曜日の午後2時頃に集まり、鈴鹿を目指した。
まだ高速道路はなく、一般道を走ったわけだが、遠いと感じたことなどなかった。東京から鈴鹿サーキットまでの距離は、400kmを少し超えるくらいだったかと思うが、ほぼ7時間くらいで走った。かなり速かったと思う。
で、翌日鈴鹿を走り、その日のうちに帰路に着くわけだが、だいたい1台はトラブルかクラッシュで自走できなくなる。それを業者に頼んで東京まで送ると大変な費用がかかる。
だから、クルマを積めるトラックを1台、グループに加えた。鈴鹿は走らないけど、鈴鹿に行くのは大好きという有難いトラックの持ち主が引き受けてくれたのだ。ちなみに、このトラックの稼働率はかなり高かった。
ジョイントクラブのおじさんたちも、こんなきつい行動を共にした。「僕らのことなど気にしないで、旅館にでも泊まれば?」と兄に言ったのだが、「いや、全然大丈夫だから気にしないでいいよ」と、、。
兄も負けず嫌いだったが、他のおじさんたちも負けず嫌いが揃っていたのだろう。
負けず嫌いと言えば、こんなこともあった。秋葉原の電気店のオーナーで、50才くらいだったかと思うが、この方が大の負けず嫌い。一般道でもいつも先頭を走りたがる。
で、鈴鹿に行く時の箱根越えで、頑張って先頭を走っていた時、コーナーを曲がりきれずにドカン! 身体が無傷だったのはなによりだったが、買って間もないTR-4はほぼ全損。
もうひとつ同類の話がある。主人公は僕の兄。やはり、買って間もないTR-4で鈴鹿に行く途中、箱根で頑張りすぎて側溝に脱輪。こちらは小損? で済んだが、レッカー代、修理代等々、出費はそうとう嵩んだようだった。
輸入車だとチューニングできないので、国産車に。当時、いすゞと関係の深かったチューニングショップのエンジニアに親しい人がいたので、クルマはいすゞ ベレットにした。
この辺の話は以前もしたので簡単に済ませるが、エンジンも、足回りも、軽量化(外せるものはすべて外しただけのことだが)も、やれることはすべてやった。
結果、鈴鹿でワークス ベレットとほぼ並ぶタイムが出せるまでになった。ゼロヨンでコルチナ ロータスに勝ったのも大切な思い出だ。
お金持ちのおじさんグループと、お金はないけど「やる気はある」若手グループがわが家に集まり、時には週末の鈴鹿行きを共にするという「あの日々の経験」は、思い出す度に楽しくなり、うれしくなる。
僕はその後、自動車ジャーナリストという職についたわけだが、こうした体験が、僕の仕事にとっても、すごく貴重なものになったのはいうまでもない。
僕の走り屋仲間はもちろんだが、世代の違う人たちとの、さり気ない、時に熱い交流は、いくら本を読んでも勉強をしても学べない、あるいは身につかない多くを、僕に与えてくれたということだ。
おじさんグループはもう誰もいない。でも、あの日、あの時の思い出の多くは、今も、昨日のことのように思い出す。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。
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■ 溝呂木先生の春の個展開催!
本連載のイラストを手がけている溝呂木陽先生の個展が開催されます。ルマンクラシック2023で出会った名車たちから、パリの女性たちの水彩画を展示。他にも模型、個人模型雑誌や画集などの展示販売も。クルマ好きのみなさま是非チェックくださいませ。
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会期/2023年10月20日(金)〜25日(水)
時間/12〜19時 期間中無休 入場無料
在廊日/毎日在廊
場所/原宿ペーターズショップ アンド ギャラリー
住所/東京都渋谷区神宮前2-31-18
お問い合わせ/03-3475-4947
HP/www.paters.co.jp