2024.03.29
【vol.18】香道を学ぶ(1)
知るほどに深く面白い! “大人の遊び”「香道」の世界とは?
モテる男には和のたしなみも大切だと、小誌・石井編集長(50歳)が、最高峰の和文化体験を提供する「和塾」田中康嗣代表のもと、モテる旦那を目指す連載です。今回のテーマは「香道」。前編では香道の歴史と内容について学びます。
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文/木村千鶴 写真/トヨダリョウ 編集/森本 泉(LEON.JP)
第18回のテーマは「香道」。香道は、茶道、華道、能などとともに中世に誕生、天然香木の香りを楽しみ、判別するという独自の文化を構築し、日本で唯一志野流が継承してきました。
難解だというイメージもある香道について、今回は最大の香道流派で550年の歴史を持つ志野流の第21世家元継承者である蜂谷宗苾(はちや・そうひつ)さんに教えを乞うことに。宗苾若宗匠、よろしくお願いします。
ヨーロッパでは香水、日本では香木を炷くことで香りを楽しんだ
蜂谷宗苾さん(以下、蜂谷) 香道は室町時代、三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)、そして、東山文化の中心人物である8代将軍・足利義政の同朋衆であった志野宗信(しの・そうしん)の手によって、華道・茶道と並ぶ芸道として体系化されたものです。古くは、香を炷(た)く文化は仏教の伝来とともに日本に入ってきて、その後、平安貴族や武士の香作法、禅の思想、そして日本の四季や死生観などが交わりながら世界に類稀な香文化として昇華されていきます。
田中 それが体系化され香道となったのが室町時代ということですね。
蜂谷 はい。でも、きっと太古の昔から、気分を落ち着かせたり、逆に高揚させたり、また、健康を促進したりすることは、日本のみならず世界中で行われていたでしょう。
お香を炷くと煙は上へ上へと立ちのぼっていきますよね。仏教に限らず目に見えない存在に感謝する、自分の思いを大いなる存在に届ける、神仏や自然界と自己を繋げる役目があったと考えられます。また天然の香木には邪気を祓い、心身を清浄に保つ力があるとされ、薬としての役割もあったようです。
蜂谷 その中で、香道では香水ではなく、沈水香木(じんすいこうぼく)という木材を使用します。沈香が採れるのは、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシアなどの東南アジアのみです。その沈香が、今から1400年以上前の595年、推古天皇の時代に淡路島に香木が漂着したというのが、日本の香文化のスタートです。
石井 洋編集長(以下、石井) そんなことまでわかっているんですか。
蜂谷 はい、日本書紀に記録として残っております。当時、沈香はまだ宗教儀礼の中で使用され、そこから特権階級である天皇や貴族たちが段々と生活に取り入れていきました。昔は毎日お風呂に入るわけではないですし、上下水道も今のように管理されていない。当然、街中にはいろんな匂いが漂っていたでしょうね。
石井 西洋で香水が発達したのはそういうことからだと聞いたことがあります。
蜂谷 ヨーロッパでは香水を振りかける、我々は香を炷く。とはいえ香木は貴重品ですから、一般庶民にはなかなか手が出せないものでした。先程も申し上げましたが、平安時代には貴族たちの間で和歌とセットで広まっていきました。紫式部が源氏物語の中でも描いていますね。
蜂谷 和歌をしたためた恋文を贈る時に、自分が調合した香りをつけることもあったようです。和歌や書のセンス、香りの良し悪しが相手を振り向かせるテーマだったのです。
石井 オリジナルの香りを添えて愛を伝えるんですね。めっちゃくちゃカッコいいじゃないですか。
蜂谷 沈香だけでなく、同じく東南アジアで算出されるシナモンなどの香料も炷き合わせて自分専用のものを作っていくんです。そこに恋心も練り込んでいく。
当時、貴族の割合は人口1000万人に対してたったの数百人。多分、香りだけで「あ、先程あの人がここを通った」「この残り香はあの人のだ」と感じ取ることができたでしょうし、壁やドアで仕切られた西洋建築と違って、寝殿造りは簾(すだれ)などで風通しが良いですから、風が気になる人の香りを運んできてドキッとすることもあったでしょう。
【ポイント】
■ 595年、淡路島に香木が漂着したのが日本の香文化のスタート
■ 平安時代、貴族はぞれぞれ自分の香りを持っていた
■ 室町8代将軍足利義政の時代に香道は体系化された
■ 志野流は、志野宗信から現代まで550年本物の香道を一子相伝で継承している
目に見えない香りを嗅いで、浮かんでくる景色を歌に詠む
蜂谷 沈香と向き合い、語りかけます。最終的には彼らの香りに合致する歌を詠む、これがとても難しい世界なのです。例えば茶道で使用する茶入や茶杓、茶碗などは目で見ることができますから視覚的情報による景色があります。目に見えるものだから他の人が手に取っても何となく共感ができる。でも香りの場合は難しい。ある人にとっては花のイメージがしても、ある人にとっては月が浮かぶかも知れない。
石井 確かに!
田中 香りを嗅いだ時、目を閉じて浮かんでくる景色を詠むには、歌の素養も必要だし、書もうまくなきゃならない。昔の貴族は仕事だけでなく、そういう全般的な教養や感性も持ち合わせていましたね。
石井 仕事が出来ればモテるというわけじゃないのは今も一緒です(笑)。
蜂谷 それから鎌倉時代になって、武士たちにも香の文化が広がっていきました。やはり戦地は血生臭いこともあるだろうし、毎日死ぬ生きるの追い込まれた日々のなか、戦地に赴く前には気持ちを昂らせ、無事に陣に戻れれば、今度は戦いで疲れた心を癒すため、香を使ったということもあるでしょう。
そして今から550年前、室町時代になって、応仁の乱後、8代将軍足利義政の治世の下、東山文化慈照寺(銀閣寺)に多くの文化人が集まってきました。彼らは同朋衆と呼ばれ、連歌師の能阿弥、華道の池坊専慶、茶の湯の村田珠光、そして香道については志野流初代、志野宗信がその役目を担いました。千利休はもう少し後の時代、志野流の三代省巴(しょうは)と密接な関係にあり、茶道の流派の中には志野流香道のお手前が組み込まれております。なお、香道では、香りを嗅ぐとか匂うと表現しません。中国語の「聞」が、香りを感じ取るという意味になりますので、五感全部で感じ取るが如く「聞く」と表現します。
石井 へえ〜。千利休も志野流の香道をしていたのですね。
石井 大変な長さですね。僕らは仕事のことを100年単位では考えてないですから(笑)。
蜂谷 私の場合は、物心ついた時から初代のことに思いを馳せたり、成長が百年単位の沈香に囲まれて育ってきましたから、自然と300年後、500年後を意識してしまいます。
石井 それは、なかなか人と話が合わないですね(笑)。
【ポイント】
■ 香道では香りに合わせて和歌を詠んだ
■ 鎌倉時代以降、香道は武士の間にも広まった
■ 千利休や本阿弥光悦、全国の大名たちも志野流の香道を学んだ
人間も本来、体の全部で外の情報を捉える機能を持っている
沈香ができるまでには100年以上の年月がかかります。沈香ありきの香道は、自然界の時間的な動き、もっと言えば宇宙の法則に則って、修得していかなければなりません。
田中 木がなくなれば香道も続けられないですからね。
蜂谷 今、私どもは植林活動もしておりますが、そこから香木が採取出来るのは自分の孫やひ孫の代になるでしょう。世界のリーダーたちが環境問題について議論していますが、人間同士が国際会議で話し合うことより、木を含めた自然界に目と耳を向けて対話することが大事だと思います。木は丁寧に日本語で説明はしてくれませんが、何かしら、波動のようなもので繋がることが出来ます。
石井 木と対話、ですか……。
蜂谷 これは友人の脳科学者の方が言っていたことですが、同じ空間にいる人や、すれ違う人を「この人、気が合いそうだな」とか「この人苦手だな」というように、感覚として毛穴や細胞含め、五感全部で捉える機能を持っているんだそうです。本来、目は最終確認作業で使うくらいのものなんだとか。
現代人は目と耳で情報収集することが多く、嗅覚はほとんど使っていないのです。犬や猫、ライオンといった動物たちはかなりの情報を嗅覚で入手しています。でも人間も動物ですからね。オフになっている嗅覚スイッチを、今の時代オンにすることが大事ですね。
蜂谷 嗅覚は五感の中でも一番大切だと思います。実は私は20代の頃に一度脳腫瘍で死にかけたのですが、失明する前提で手術を受けました。でも不思議と怖くはなかった。ご先祖様が護ってくれているから、絶対に死なないと。香道の家元になるのだから、嗅覚さえあれば目が見えなくなってもいいとさえ思っていました。
石井 病気の後で何か変わったことはありましたか、感覚の違いとか。
蜂谷 まだその頃の私は若かったので、人生が一変したとか、すごい感覚が覚醒したなんてことはなかったのですが、この歳になってきて、あの酷い頭痛の日々と、辛い手術を乗り越えてきた経験は、未熟な私の人間性や精神の向上に役立ってくれたのだと言えます。そして、普段素通りして見過ごしていた路傍に咲く小さな花の色の濃淡が濃くなって、意識が向くようになりました。
沈香の香りを感じ取り、自分の思いを和歌に認めるのも、一文字一文字にその人の人柄が滲み出てくる書にしても、やはり人生経験が大きく関わってくると思います。病気は偶然なるものだから、わざわざ経験するものではないけれど、例えば一生を賭けたような恋愛をしてみる、フラれて人生のどん底を味わう、そんな経験の多寡が人間の情の部分を作ると思うので、そういった意味ではいろいろ経験しておけばいいと思うのです。
石井 経験か〜。
蜂谷 香道は高度な美意識が求められる究極の遊びです。受験勉強で学ぶ知識は役に立ちませんね。聞香作法を繰り返し稽古するだけでなく、人生経験も同じくらい大事なのです。中途半端はいけませんね。遊びつくす経験も必要かと(笑)。
石井 いいこと伺いました!
【ポイント】
■ 沈香ができるまでには100年以上の年月がかかる
■ 木や自然と対話することが大切
■ 人間も本来、体と感覚全部で外の情報を捉える機能を持っている
■ 香道を学ぶには作法だけでなく人生経験そのものが大切
混沌とした時代の闇のような部分を最高の香りで吹き飛ばしたい
蜂谷 はい。本来香木の価値基準を決められるのは現代では志野流の家元だけ、地球上にたった一人しかいないので責任があります。通常、香木の鑑定には1年以上かかります。1回香りを聞いて、これは伽羅(きゃら)だな、味は甘くて位は中の上だな、などと言えるものではない。そもそも私も含め、たかだか数十年しか生きていない未熟な人間が、長い年月をかけてつくられた自然の叡智の結晶でもある沈香に対して、評価するなんてことがおこがましいことなのです。
石井 なるほど。
蜂谷 それでも、少しでも精神的に成熟し、魂の向上を目指し、彼らと向き合って会話をします。対峙する時、春なのか秋なのか、体調の変化もあるでしょう。何度も何度も香木と向き合って、心で会話して、1年くらい経った頃に、ようやくあなたが誰なのかと言えるようになってくるものです。
それから歌をつけると、もうその香木は家族や恋人のようになります。同じものはふたつとなく、後から作ることもできないので、継承した沈香も絶対に使い切ってはいけません。初代が所持していた沈香たちは10代先、20代先に残していきます。
田中 例えば蘭奢待(らんじゃたい)という天下第一の名香と謳われる香木があります。東大寺正倉院に収蔵されていて、織田信長が切り取ったとか、明治天皇が香りを聞かれたという記録も残っていますが、これなど決して使い切るわけにはいきませんからね。
石井 そんな伝説の香木も存在するんですね!
ここまで香道を継承してきたわけですが、時代背景によって大変なことはたくさんありました。江戸時代には鎖国があったので、香木を鑑定するため十一代目式部豊充が出島に出向いています。当時は全国各地で香道が広まり江戸城の大奥の女中たちも志野流香道を嗜みました。
幕末の蛤御門の変では家屋が焼失、続いて明治維新に西洋文化を迎え、香道・茶道・華道といった日本の芸道がすべて衰退してしまった。
二度の世界大戦から戦後レジームのなか、志野流は160年、苦難の時代がまだ続いています。もし途中で誰かが文化継承を諦め、転職でもしていたら歴史から香道は消えていたでしょう。そこに私は生まれてきた。歴代家元20人の思いを責任をもって受け継ぐ。年々、その思いが強く大きくなってきています。
田中 お家元継承は近くに迫っているのですね。若宗匠が次のお家元になられたら、何をするか、もうすでに考えていることはあるんですか。
石井 スケールが違いますね。凄い!
蜂谷 野球やサッカーの選手としてのピークは人生の早い時点でやってきますが、香道の家元が一番輝く時は、72、73歳と勝手に思っています。だからまだ私のピークは25年後ですね。
田中 伝統文化の世界は50、60はハナタレ小僧、勝負は70代からですからね(笑)。蜂谷さんが70代になった時、何をしてくれるのか、きっと面白いことになっているだろうなと思っています。
蜂谷 引き続き、経験を積んでいきます。芸道に近道はないし、飛び級もありません。父はもう84年もこの道を歩いてきて、今の景色を一人楽しんでいるでしょう。私はまだ山の中腹にも到達できていませんが、これから50、60、70歳の時にどんな景色が見えるのか、今から楽しみです。
石井 ともに長く見届けさせていただきます!
※後編に続きます。後編では編集長が実際に香木の香りを聞く聞香会に参加します。
【ポイント】
■ 香道の家元の仕事のひとつは香木を鑑定し、銘を付けること
■ 通常、香木の鑑定には約1年かかる
■ 継承した香木は絶対に使い切ってはいけない
■ 香道の世界では70代がピーク
● 蜂谷宗苾(はちや・そうひつ)
志野流香道第21世家元継承者。1975年、室町時代より500年に渡り香道を継承する志野流第20世家元蜂谷宗玄の長男として誕生。2002年より1年間大徳寺松源院泉田玉堂老大師の下に身を置き、2004年に軒号「一枝軒」宗名「宗苾」を拝受。以来、若宗匠として全国教場などでの指導に当たるほか、海外での香道普及も努める。文化庁海外文化交流使/一般社団法人志野流香道松隠会副会長/一般社団法人日本文化継承者協会代表理事/一般財団法人ロートこどもみらい財団理事/一般社団法人日本ソムリエ協会名誉ソムリエ/フランス調香師協会名誉会員
■ 志野流香道松隠会
HP/shinoryushoinkai.net
● 田中康嗣(たなか・こうじ)
「和塾」代表理事。大手広告代理店のコピーライターとして、数々の広告やブランディングに携わった後、和の魅力に目覚め、2004年にNPO法人「和塾」を設立。日本の伝統文化や芸術の発展的継承に寄与する様々な事業を行う。
■ 和塾
豊穣で洗練された日本文化の中から、選りすぐりの最高峰の和文化体験を提供するのが和塾です。人間国宝など最高峰の講師陣を迎えた多様なお稽古を開催、また京都での国宝見学や四国での歌舞伎観劇などの塾生ツアー等、様々な催事を会員限定で実施しています。和塾でのブランド体験は、いかなるジャンルであれ、その位置づけは、常に「正統・本流・本格・本物」であり、そのレベルは、「高級で特別で一流」の存在。常に貴重で他に類のない得難い体験を提供します。
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