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2024.05.01

マハラジャ、キサナドゥ、トゥーリア、TOKIO……

バブルの証人が語る「昭和のディスコが私たちに教えてくれたこと」

昭和ブームが長く続いていますが、閉塞感にあふれる現代から見ると、昭和の後半は経済も右肩上がりで人々はイケイケ。過剰なエネルギーに満ちた昭和の元気良さが輝いて見えるのも必然かと。ディスコという時代のあだ花から見た昭和を振り返ります。

CREDIT :

文・編集/秋山 都(Web LEON)、写真/赤澤 昴

昭和のディスコについて思い出を語ってくれた甘糟りり子さん(左)、渡邊弘幸さん(右)。
▲ 昭和のディスコについて思い出を語ってくれた甘糟りり子さん(左)、渡邉弘幸さん(右)。
「ふてほど」の愛称で親しまれたTVドラマ『不適切にもほどがある』(TBS)が最終回を迎えてしまい、一抹の寂しさを感じている方も多いのでは。ドラマではくるくるドライヤーや、ぺったんこにつぶされた革かばん、当時の渋谷を席巻していた「セーラーズ」(ドラマ内では「セーヤーズ」)のトレーナーなど、往時を思わせるグッズや場所が次々と登場し、昭和への郷愁を誘いました。

そんな折、ちょっと違和感を残したのは第5話で登場した「マハラジャ」のシーンです。ミラーボール、ボディコンのワンピ、イケメン風の黒服たち、そしてあの懐かしのVIPルーム……。おっと、“あの懐かしの”なんて知ってる風に書きましたが、筆者は昭和40年代生まれの東京育ちではあるものの、イケてないカーストで過ごしていたため、本当に盛り上がっていた昭和時代のマハラジャへは数えるほどしか行ったことがありません。それでも、ドラマの中の「マハラジャ」はペラペラの作り物のようにしか見えず、興ざめでした。「マハラジャ」って、もっと暗くて、もっとゴージャス。もっと重厚な音だったし、もっと浮ついて欲望にまみれた男女がひしめく、熱気に満ちた空間だったのになぁ……。

 そこで、昭和のディスコは実際どうだったんだろう? と当時を知る識者のおふたりにお話を聞きました。甘糟りり子さん、渡邉弘幸さん、昭和のディスコの話、聞かせてください~!
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バブルっていったいどんな時代だった? 熱狂のさなかにいた著者が精緻な記憶とともにバブルを綴った名著。
▲ バブルっていったいどんな時代だった? 熱狂のさなかにいた著者が精緻な記憶とともにバブルを綴った名著。
まずはおふたりのご紹介から。甘糟りり子さんは「1990年の私に顔パスで入れないディスコはなかった」という衝撃的な帯文で知られる名著『バブル、盆に返らず』の著者である、まさにバブルの語り部。そして渡邉弘幸さんは博報堂の営業部長などを経て、トータルビューティサロン「uka(ウカ)」の代表取締役CEO。昭和という時代が終わった1989年1月に甘糟さんは24歳、渡邉さんは23歳ですから、まさに遊び盛りだったでしょうね。ちなみにお話を聞いた筆者は当時、19歳でした。
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甘糟りり子

甘糟りり子

作家。1964年神奈川県生まれ。玉川大学文学部英米文学科卒業。学生時代は資生堂のキャンペーンガールを経験。大学卒業後、アパレルメーカー勤務、雑誌の編集アシスタントを経て、執筆活動を開始させる。ファッション・グルメ・映画・車等の最新情報を盛り込んだエッセイや小説で注目を集め、主な著書に、『東京のレストラン : 目的別逆引き事典』、『真空管』、『中年前夜』、『産む、産まない、産めない』、『鎌倉の家』、『バブル、盆に返らず』『私、産まなくていいですか』など。

渡邊弘幸

渡邉弘幸

uka 代表取締役CEO。1966年東京都生まれ。明治大学在学中は体育会アメリカンフットボールに入部し、クォーターバックとして活躍。大学オールスター戦であるヨコハマボウルでMVPを獲得し、大学アメフト界の花形として知られた。卒業後は博報堂に勤務し、営業部長などを経て2009年に退社。夫人でありネイリストとしても活躍する渡邉季穂さんの父親が創業した株式会社向原(現・株式会社ウカ)に取締役副社長として入社。美容室「エクセル」からトータルビューティサロン「uka(ウカ)」へのリブランディングのほか、教育機関ukademy、オリジナルプロダクト・サロンメニューの開発を担うR&D、ukafeの立ち上げ、海外展開にも尽力。2014年より現職。2017年には一般社団法人アジアビューティアカデミー(ABA)理事長に就任。

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マハラジャ、キサナドゥ、トゥーリア、ビブロス……

昭和のディスコはこんな場所でした

渡邊さんの友人が所蔵している、当時のディスコやクラブのマッチ。「J Trip Bar」は溜池、六本木、渋谷などで多店舗展開し、それぞれ「六J」、「渋J」などと呼ばれていたっけ……。
▲ 甘糟さんが所蔵している、当時のディスコやクラブのマッチ。「J Trip Bar」は溜池、六本木、渋谷などで多店舗展開し、それぞれ「六J」、「渋J」などと呼ばれていたっけ……。
LEON まず、初めて行ったディスコから教えていただけますか?

甘糟りり子(以下甘糟) 私、六本木でも渋谷でもなくて、吉祥寺のディスコなんですよ。中学3年の時、当時の家庭教師の先生が高校に合格したお祝いに。その先生が東女*¹で、下宿先の近くのディスコに連れてってくれました(笑)。

渡邉弘幸(以下渡邉) ぼくも中学3年の時、「キサナドゥ*²」。
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甘糟 「キサナドゥ」がすぐに閉店して、その後に「ナバーナ*³」が開いたのが1980年。この年に雑誌『BRUTUS』が創刊して、「青山ブックセンター」が開業したのよね。1980年、つまり昭和55年はエポックメイキングな1年だったのかも。

LEON すごい記憶力(笑)……にしても、おふたりとも中学生の時からディスコに行くんですね。ちなみに私は地味なクラスタに属していたので初ディスコは高2の時、渋谷の「ラ・スカラ*⁴」でした。初心者でも入りやすい雰囲気でしたが、遊んでる人はやっぱり違うんだなぁ。

渡邉 ぼくは学校(麻布中・高*⁵)も近かったからね。

甘糟 私は六本木に対して、鎌倉という距離的なハンディがあったから、高校時代は横浜のディスコが多かったかな。東京まで遊びに行くのは主に大学生になってからでしたね。

LEON ちなみに入場料はどうしていたんですか? 学生にとってはバカにならない金額ですよね。
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渡邉 ぼくはディスコに煙草を買ってもっていくというバイトを始めて、それで顔パスにしてもらっていたんですよ。

甘糟 私は……自分で払ったこともありますよ。

渡邉 「も」って(笑)。

甘糟 ほら、あの頃、派手なファッションの若い女子は“しゃべる観葉植物”みたいなものだったから、観葉植物枠として顔パスにしてもらっていました。DJブースのまわりの目立つ場所にいる女の子はだいたいそうだったんじゃないかな。
*1 東京女子大学。キャンパスは吉祥寺と西荻窪の間にある。
*2 1979年、「不二家」の一族、藤井和美氏が六本木に作ったディスコのこと。わずか16か月で閉店したこともあり、伝説のディスコとして語り継がれる。
*3 「キサナドゥ」が名前を変えてリニューアルオープンしたディスコ。
*4 渋谷・公園通りにあったディスコ。入店するともらえるサーフボードのキーチャームをバッグにつけている高校生が大勢いた。
*5 開成・武蔵とともに男子御三家と言われる名門校。
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「『トゥーリア』のシャンデリアが落ちた1988年、昭和のディスコも終焉を迎えた」

鎌倉で生まれ育ち、高校時代は主に横浜で遊んでいたという甘糟りり子さん。近著に『鎌倉の家』、 『鎌倉、だからおいしい』 なども。
▲ 横浜生まれ、鎌倉育ち。高校時代は主に横浜で遊んでいたという甘糟りり子さん。近著に『鎌倉の家』、 『鎌倉だから、おいしい。』 なども。
LEON 当時のディスコと言うと、DJが「今日はX子ちゃんの誕生日~♪」などとよくしゃべっていた記憶があります。それと冷えたスパゲティや甘ったるいパンチのような飲み物。それとみんなで同じ振りで踊ったり……

渡邉 それは「クレオパラッツィ*¹(以下クレオ)」の後だからでしょうね。「クレオ」がね、時代を変えたんだよね。ディスコって、それまではブラックミュージックをかける場所だったんですよ。横田基地あたりからアメリカ人も来て、ファンクな雰囲気。そこへ「クレオ」が出来て、UKロックへ変わっていった。デュラン・デュランとか(デビッド・)ボウイとかね。
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甘糟 1981年よね。バブル時代のディスコの音楽としてイメージされる「ユーロビート」が主流になるのは、もう少し後なんですよね

LEON ブラックというと「サーカス*²」が思い出されますが、私のイメージではこれはクラブで、ディスコと一線を画す存在だと思っていました。「GOLD*³」がディスコ時代の終焉を告げ、クラブカルチャーへシフトしていったと思っていたのですが、ディスコ自体にも変遷があったのですね。

甘糟 どこがクラブの第一号かというのは諸説あるんですが、「クレオ」は他のディスコにも大きな影響を与えたのよね。そのメンバーたちが造った「TOKIO*⁴」はすごくカッコよかったし、当時行くのに一番緊張した場所でした。転換期になったのはやっぱり「トゥーリア*⁵」じゃないでしょうか。空間プロデューサーの代名詞のような存在だった山本コテツさんが手がけた大箱で、経営は「レイトンハウス*⁶」。六本木7丁目にビル1棟を新しく建て、コンセプトは“地球に不時着した宇宙船”。事故のことも含めて、バブルを象徴する空間でした。

LEON ダンスフロアの上の巨大なバリライトが落ちて、大惨事になったんでしたね。怪我人も大勢出て、3名の方が亡くなりました。当時の私にとっては「トゥーリア」は大人が遊びに行く場所というイメージで、遠い外国の事故のように感じていました。
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甘糟 事故が起きたのは88年の1月5日でした。夜のニュース番組では映像付きで各局が報道していて、それを見た友人たちから生存確認の電話が続々とかかってきました。私も友人もよく行っていましたからね。ちょっと日にちがずれていたら、あのライトの下にいたかもしれない。翌年の1月7日に昭和が終わるわけですが、この事故が昭和のディスコの終焉を告げたようにも感じています。

渡邉 大箱の、いわゆるディスコの終わりだったね。「GOLD」が出来たのが89年だから、あれはもう平成なのか。昭和って、バブル時代と混同されがちだけど、実はバブル前夜なんだよね。その爆発しそうなエネルギーに満ちた時代だった。ぼくが好きなのはもっとレイドバックした雰囲気の、今でいうクラブに近い感覚のディスコでしたけど。
港区生まれの港区育ち。夜遊びも港区が中心という生粋のシティボーイである渡邊弘幸さん。
▲ 世田谷区生まれの港区育ち。夜遊びも港区が中心という生粋のシティボーイである渡邊弘幸さん。
*1 六本木にあったディスコ。その後、沖縄でも展開。
*2 横浜と六本木にあったソウルミュージック系のディスコ。EXILEのHIROやZOOのLUKEがバイトをしていた。
*3 1989年、芝浦に開業した大型クラブ。最上階には大きなジャクージ風呂のある会員制ラウンジ「YOSHIWARA」があった。
*4 青山にあったディスコ。1983年開業。
*5 六本木にあった当時の高級ディスコの代表格。1988年1月5日に起きた照明落下事件では、女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、3名が死亡、14名が負傷した。
*6 80年代後半から90年代前半にかけてF1やスポーツカー世界選手権などの国際レースで活躍した日本の企業、及びその傘下のレーシングチーム。同名のアパレルも展開し一世を風靡した。
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いろんな意味で伝説を残した「マハラジャ」

80年代初頭の甘糟りり子さんと母の甘糟幸子さん。美人母娘!
▲ 80年代初頭の甘糟りり子さんと母の甘糟幸子さん。ふたり揃って幅広ベルトが80年代の気分。
LEON 昭和のディスコというテーマですから、やはり「マハラジャ*¹」は避けて通れませんよね。

渡邉 ぼくは、あんまり行ってないんだけどね。

甘糟 私は行ってましたよ、ミーハーだから(笑)。「マハラジャ」が出来たのは1984年の年末。私は大学2年生でしたが、「ストロベリーファーム*²」で待ち合わせしてからタクシーで行くことが多かったですね。男性は女性同伴じゃないと入れないとか、服装チェックがあるとか、店内だけで通用するマハラジャ紙幣なんかもあって、いちいち大袈裟なのが時代の気分だったんじゃないかな。ディスコの必須アイテム「お立ち台」の起源にも諸説あるけれど、私は初めてお立ち台が誕生したのもここだと思ってます。
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渡邊弘幸さんが「あまり好きではなかった」という「キング&クィーン」で撮られたレアなポラロイド。横にいるのは、高校生のころから交際していたという季穂夫人(uka代表取締役)。
▲ 渡邉さんが「あまり行かなかった」という「マハラジャ」の系列ディスコ「キング&クィーン」で撮られたレアなポラロイド。横にいるのは、高校生のころから交際していたという季穂夫人。
LEON その辺は甘糟さんの著書『バブル、盆に返らず』にくわしく書かれていますね。当時の服装は「アルファ・キュービック*³のチェック柄のワンピース、コインベルトをじゃらじゃらと二、三本、シャルル・ジョルダン*⁴のハイヒール」なんてくだりにも、当時同じ時代の片隅にいた者として、たまらなく懐かしくなりました。VIPルームで俳優さんにシャンパンをご馳走になったエピソードも紹介されていますが、当時たくさんの有名人にお会いになったのでは?
*1 80年代 から90年代にかけて「NOVA21グループ」が日本全国に展開したディスコチェーンの総称。その総本山が「麻布十番マハラジャ」。
*2 乃木坂にあったカジュアルレストラン。イケてる女子の溜まり場だった。
*3 1970年に創業された日本のファッションブランド。ボディコンシャスなだけではなく、知的でいい女の着る服のイメージで人気を博した。
*4 フランスのシューズブランド。今もありますが、当時のシャルル・ジョルダンは別格に高級でした。

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「あの人も、この人もディスコを溜まり場にしていた」

「逗子マリーナ」でポルシェに片足をかける甘糟りり子さん。こんがり焼けた肌が昭和ガール。
▲ 「逗子マリーナ」でトライアンフ・スピットファイアに片足をかける甘糟りり子さん。こんがり焼けた肌が昭和ガール。
甘糟 そうですね。お話できないことの方が多いんですが……(笑)。

渡邉 ぼくが「この人遊んでるなぁ、カッコいいなぁ」と憧れていたのはSさん*¹(取材時は実名=以下同)。あと、R*²は同い年なんだけど、やっぱり中坊の時から遊んでいましたね。
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甘糟 私は「プレゴ*³」でスパゲティに死ぬほどタバスコをかけていたAちゃん*⁴を見かけたのが印象的でした。あと当時のビッグカップルだった元アイドルのGさん*⁵と女優のNさんが出会ったのは「プレスティージ*⁶」だったのよね。

渡邉 昔はディスコに行けば誰かに会えたし、カッコ良い大人のふるまいを見て学べたのもディスコ。酒の飲み方も、音楽も、ディスコがぼくらに全部教えてくれたんだよね。
*1 超有名俳優を父にもつ二世俳優。今や日本を代表する俳優のひとり。
*2 ファッションモデルからバラエティに進出した草分け。
*3  「マハラジャ」同系列のイタリアンというかカフェバーというか。
*4 超売れっ子アイドル。最近、動画で復活したと話題に。
*5 LEONのイベントにも来ていただきました。ジャパ~ン!
*6 飯倉片町にあったディスコ。
六本木スクエアビルに1981年開業したディスコ「KISS RADIO」のドリンクチケット(渡邊さんの友人所蔵)。
▲ 六本木スクエアビルに1981年開業したディスコ「KISS RADIO」のドリンクチケット(渡邉さんの友人所蔵)。
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LEON おふたりのお話を聞いていると、ディスコが昭和の若者にどれほど大きな影響力を与えていたのか、だんだん感覚的にわかってきたように思います。でも、今の人たちはあまりディスコやクラブに行かないですね。

甘糟 今の人たちはスマホがありますからね。私たちの時代の行きつけのディスコって、部活の部室みたいな感じだったんですよ。約束してなくても行けば誰かいる、なんとなく溜まれる、みたいな。今はSNSでゆるく繋がったり、出会ったりできちゃいますもんね。とはいえ、リアルな場所の熱気は格別だなんだけど。あと、ハメを外しすぎると、 SNSで拡散されちゃうのが怖いのかもしれませんね。

渡邉 昔も今も、溜まり場ってやっぱり必要でしょう。昭和のディスコが当時のぼくたちにとって何だったのか、と聞かれたら、ぼくは“すべて”と答えますね。
甘糟さんが「マハラジャ」へ出かける前にお茶していたという「ストロベリーファーム」ほか「キング&クイーン」などの灰皿(渡邊さんの友人所蔵)。
▲ 甘糟さんが「マハラジャ」へ出かける前にお茶していたという「ストロベリーファーム」ほか「キング&クイーン」などの灰皿(甘糟さん所蔵)。
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昭和のディスコは東京に暮らす若者たちの溜まり場であり、互いに切磋琢磨する刺激を与えてくれる場でもあり、また先達に出会える学校でもありました。言うなれば青春のエネルギーが一カ所に集中した場でもあったようですが、その熱量はいまどこへ消えてしまったのでしょう。

甘糟さんが指摘するようにスマホの先へとつながるネット社会やメタバースに注がれているのかもしれないし、多様化する嗜好や社会に応じて分散してしまったのかもしれません。そのどちらが正しいというわけではないけれど、当時の時代の先端を享受していたおふたりには一種「遊びつくした」という清々しさが感じられ、なによりとてもカッコよくみえました。やっぱり、遊ぶのって大事なことなんだなぁ。久々に、どこかへ踊りに行ってみようかな。

昭和の遊びをもっと知りたい?

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