そんな折、ちょっと違和感を残したのは第5話で登場した「マハラジャ」のシーンです。ミラーボール、ボディコンのワンピ、イケメン風の黒服たち、そしてあの懐かしのVIPルーム……。おっと、“あの懐かしの”なんて知ってる風に書きましたが、筆者は昭和40年代生まれの東京育ちではあるものの、イケてないカーストで過ごしていたため、本当に盛り上がっていた昭和時代のマハラジャへは数えるほどしか行ったことがありません。それでも、ドラマの中の「マハラジャ」はペラペラの作り物のようにしか見えず、興ざめでした。「マハラジャ」って、もっと暗くて、もっとゴージャス。もっと重厚な音だったし、もっと浮ついて欲望にまみれた男女がひしめく、熱気に満ちた空間だったのになぁ……。
そこで、昭和のディスコは実際どうだったんだろう? と当時を知る識者のおふたりにお話を聞きました。甘糟りり子さん、渡邉弘幸さん、昭和のディスコの話、聞かせてください~!
甘糟りり子
作家。1964年神奈川県生まれ。玉川大学文学部英米文学科卒業。学生時代は資生堂のキャンペーンガールを経験。大学卒業後、アパレルメーカー勤務、雑誌の編集アシスタントを経て、執筆活動を開始させる。ファッション・グルメ・映画・車等の最新情報を盛り込んだエッセイや小説で注目を集め、主な著書に、『東京のレストラン : 目的別逆引き事典』、『真空管』、『中年前夜』、『産む、産まない、産めない』、『鎌倉の家』、『バブル、盆に返らず』『私、産まなくていいですか』など。
渡邉弘幸
uka 代表取締役CEO。1966年東京都生まれ。明治大学在学中は体育会アメリカンフットボールに入部し、クォーターバックとして活躍。大学オールスター戦であるヨコハマボウルでMVPを獲得し、大学アメフト界の花形として知られた。卒業後は博報堂に勤務し、営業部長などを経て2009年に退社。夫人でありネイリストとしても活躍する渡邉季穂さんの父親が創業した株式会社向原(現・株式会社ウカ)に取締役副社長として入社。美容室「エクセル」からトータルビューティサロン「uka(ウカ)」へのリブランディングのほか、教育機関ukademy、オリジナルプロダクト・サロンメニューの開発を担うR&D、ukafeの立ち上げ、海外展開にも尽力。2014年より現職。2017年には一般社団法人アジアビューティアカデミー(ABA)理事長に就任。
マハラジャ、キサナドゥ、トゥーリア、ビブロス……
昭和のディスコはこんな場所でした
甘糟りり子(以下甘糟) 私、六本木でも渋谷でもなくて、吉祥寺のディスコなんですよ。中学3年の時、当時の家庭教師の先生が高校に合格したお祝いに。その先生が東女*¹で、下宿先の近くのディスコに連れてってくれました(笑)。
渡邉弘幸(以下渡邉) ぼくも中学3年の時、「キサナドゥ*²」。
LEON すごい記憶力(笑)……にしても、おふたりとも中学生の時からディスコに行くんですね。ちなみに私は地味なクラスタに属していたので初ディスコは高2の時、渋谷の「ラ・スカラ*⁴」でした。初心者でも入りやすい雰囲気でしたが、遊んでる人はやっぱり違うんだなぁ。
渡邉 ぼくは学校(麻布中・高*⁵)も近かったからね。
甘糟 私は六本木に対して、鎌倉という距離的なハンディがあったから、高校時代は横浜のディスコが多かったかな。東京まで遊びに行くのは主に大学生になってからでしたね。
LEON ちなみに入場料はどうしていたんですか? 学生にとってはバカにならない金額ですよね。
甘糟 私は……自分で払ったこともありますよ。
渡邉 「も」って(笑)。
甘糟 ほら、あの頃、派手なファッションの若い女子は“しゃべる観葉植物”みたいなものだったから、観葉植物枠として顔パスにしてもらっていました。DJブースのまわりの目立つ場所にいる女の子はだいたいそうだったんじゃないかな。
「『トゥーリア』のシャンデリアが落ちた1988年、昭和のディスコも終焉を迎えた」
渡邉 それは「クレオパラッツィ*¹(以下クレオ)」の後だからでしょうね。「クレオ」がね、時代を変えたんだよね。ディスコって、それまではブラックミュージックをかける場所だったんですよ。横田基地あたりからアメリカ人も来て、ファンクな雰囲気。そこへ「クレオ」が出来て、UKロックへ変わっていった。デュラン・デュランとか(デビッド・)ボウイとかね。
LEON ブラックというと「サーカス*²」が思い出されますが、私のイメージではこれはクラブで、ディスコと一線を画す存在だと思っていました。「GOLD*³」がディスコ時代の終焉を告げ、クラブカルチャーへシフトしていったと思っていたのですが、ディスコ自体にも変遷があったのですね。
甘糟 どこがクラブの第一号かというのは諸説あるんですが、「クレオ」は他のディスコにも大きな影響を与えたのよね。そのメンバーたちが造った「TOKIO*⁴」はすごくカッコよかったし、当時行くのに一番緊張した場所でした。転換期になったのはやっぱり「トゥーリア*⁵」じゃないでしょうか。空間プロデューサーの代名詞のような存在だった山本コテツさんが手がけた大箱で、経営は「レイトンハウス*⁶」。六本木7丁目にビル1棟を新しく建て、コンセプトは“地球に不時着した宇宙船”。事故のことも含めて、バブルを象徴する空間でした。
LEON ダンスフロアの上の巨大なバリライトが落ちて、大惨事になったんでしたね。怪我人も大勢出て、3名の方が亡くなりました。当時の私にとっては「トゥーリア」は大人が遊びに行く場所というイメージで、遠い外国の事故のように感じていました。
渡邉 大箱の、いわゆるディスコの終わりだったね。「GOLD」が出来たのが89年だから、あれはもう平成なのか。昭和って、バブル時代と混同されがちだけど、実はバブル前夜なんだよね。その爆発しそうなエネルギーに満ちた時代だった。ぼくが好きなのはもっとレイドバックした雰囲気の、今でいうクラブに近い感覚のディスコでしたけど。
いろんな意味で伝説を残した「マハラジャ」
渡邉 ぼくは、あんまり行ってないんだけどね。
甘糟 私は行ってましたよ、ミーハーだから(笑)。「マハラジャ」が出来たのは1984年の年末。私は大学2年生でしたが、「ストロベリーファーム*²」で待ち合わせしてからタクシーで行くことが多かったですね。男性は女性同伴じゃないと入れないとか、服装チェックがあるとか、店内だけで通用するマハラジャ紙幣なんかもあって、いちいち大袈裟なのが時代の気分だったんじゃないかな。ディスコの必須アイテム「お立ち台」の起源にも諸説あるけれど、私は初めてお立ち台が誕生したのもここだと思ってます。
「あの人も、この人もディスコを溜まり場にしていた」
渡邉 ぼくが「この人遊んでるなぁ、カッコいいなぁ」と憧れていたのはSさん*¹(取材時は実名=以下同)。あと、R*²は同い年なんだけど、やっぱり中坊の時から遊んでいましたね。
渡邉 昔はディスコに行けば誰かに会えたし、カッコ良い大人のふるまいを見て学べたのもディスコ。酒の飲み方も、音楽も、ディスコがぼくらに全部教えてくれたんだよね。
甘糟 今の人たちはスマホがありますからね。私たちの時代の行きつけのディスコって、部活の部室みたいな感じだったんですよ。約束してなくても行けば誰かいる、なんとなく溜まれる、みたいな。今はSNSでゆるく繋がったり、出会ったりできちゃいますもんね。とはいえ、リアルな場所の熱気は格別だなんだけど。あと、ハメを外しすぎると、 SNSで拡散されちゃうのが怖いのかもしれませんね。
渡邉 昔も今も、溜まり場ってやっぱり必要でしょう。昭和のディスコが当時のぼくたちにとって何だったのか、と聞かれたら、ぼくは“すべて”と答えますね。
甘糟さんが指摘するようにスマホの先へとつながるネット社会やメタバースに注がれているのかもしれないし、多様化する嗜好や社会に応じて分散してしまったのかもしれません。そのどちらが正しいというわけではないけれど、当時の時代の先端を享受していたおふたりには一種「遊びつくした」という清々しさが感じられ、なによりとてもカッコよくみえました。やっぱり、遊ぶのって大事なことなんだなぁ。久々に、どこかへ踊りに行ってみようかな。