2024.08.24
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第4話 その2】
まるで則天武后の生まれ変わりだ
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第4話 その2】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)
■ 四人目の殺し屋:北村みゆき(36)
(これまでのストーリーはこちらから)
不思議なことに嫌な感じはしなかった
不思議なことに嫌な感じはしなかった。金払いはいいし、私はファザコンではないが、年寄りが綺麗な飲み方をしていると感じた。歌舞伎町のキャバで働いたことがあるが、金もない、あったとしても成金のバカが、気安く肩に手を回して「彼氏はいるか」「LINEを教えろ」と訊いてくるのと比べたら、中田は少なくとも下品ではなかった。
何より好感を抱いたのは、彼がお付きの者を従えていなかったことだ。偉くなると取り巻きを侍らせたがるものだがそれはなく、社会の底辺から這い上がり、地位を築いた者特有の人間的魅力を備えていた。
遅かれ早かれあの男と一夜を共にするだろう。私が開発した、キスをするだけで標的を絶命可能にするリップクリームはどうだ。爪を立てただけで皮膚から致死するネイルもある。
まあいい。中田攻略に関してはおいおい考えよう。きょうはたまの休日だ。どこで羽を伸ばそうか。六本木は意外と狭い街なので足を踏み入れないほうがいい。万が一、元夫と出くわさないためにも。
いい女は酒に強い。飲みっぷりもいい
「隣は空いてるかな」
私としたことが久し振りの日本で頭がボケているのか。きょう一日張られていたことに気が付かないとは。
「これはこれは美人のホステスさん。ここで会えるとは思わなかったな」
中田会長はセラミックの前歯を突きつけてくる。スーツとは違い、休日用のコーディネートはセンスの良さが窺えた。
おかげで手間が省けた。あちらからワナに掛かってくれるのだから美人は得だ。
次の駅で降りた。十メートル長のリンカーン・コンチネンタルが待機していた。中は応接間と変わらない。噎せるほどの革張りのソファに、ひょっとしたら私のために新車を購入したのではないかと思った。
車は空港に着いた。
「プライベートジェットを用意している。ちょっとハワイまで飛んでみないか」
空を飛びながらプルニエのキャビアを5、6缶空け、ワインは2004年のロマネ・コンティ。400万円は下らないボトルを3本空けた。
「わしの予想通りだ。いい女は酒に強い。飲みっぷりもいい」
贅を尽くした持て成しを受けた。これでベッドまでお供をしなければ「食い逃げ」と訴えられても仕方がないだろう。しかしパイロットやサーヴァントなど目撃者がいるし、絶命リップとネイルは家に置いてきた。まあいい。冥土の土産に愉しませてあげよう。昇天と同時にあの世に召されるなんて、男子の本懐ではないか。
したたか酔ったふりをして中田会長の胸にもたれた。
「ハワイには来たことはあるか」
「初めてです」
青い海が一望できるホテルの最上階に辿り着く。むかし泊まったことがあった。ナイジェリアの外交官は私を壁一面のウインドウに立たせて後ろからファックした。女をモノとして扱う粗暴な男で、腰を振っている間に心臓が止まった。私が手を下すまでもなく、バイアグラの過剰摂取だった。
死んで当然だ。大きさにばかり拘り、ベッドで一度も「痛くない?」と気遣うこともなかった。セックスにはその男の器量が出る。幼稚な性技も、早いのも気にしない。男たちよ、一度でいいから女を愛で抱いてみろ。
中田会長は寝たふりの私をベッドに運ぶと、シャワールームに向かった。舌舐めずりをして待つ。
バスローブを巻いた中田会長が戻ってきた。正攻法で女を口説くことができない輩は、女を酔い潰してレイプする。この男もその程度のようだ。私は寝たふりを続けた。
が、中田会長は隣のツインベッドに入ると、そのまま私に背を向けて、寝息を立て始めた。予想外の行動だった。さて、どうしたものか。このまま私も寝てしまおうか。シャワーでも浴びようか。キッチンにナイフがないなら、花瓶を割って頸動脈を切り裂くか。窓の外は流れ星が幾つも見えた。私は少女のように願いを込めてお祈りした。
「少ないが、取っておきなさい」
翌朝、厚い札束が入った封筒を渡してきた。
「フサには内緒にな。あれは嫉妬深いから」
元子ママの本名だった。
昨日と同じジェットで帰った。「生娘か確かめる」と豪語していた中田会長は、手を握ることもしなかった。
こんな男は初めてだった。
私は嫉妬していた。バカな女だ、私は
「東南アジアでうちのパクリが売られている。大臣は“国交断絶するぞ”と脅してやって下さい。いまどきはどこに行っても外国人ばかりでウンザリですわ」
中田会長は私と目を合わさず、ママと他の子たちと愉快に騒いでいた。私は嫉妬していた。ひょっとしたら「Pink + White」で手を付けられていない女は私だけではないか。妄執に駆られた。これがもし中田会長の策略だとしたら、まんまとハマっている。バカな女だ、私は。
その日も中田会長は店の客全員の支払いを済ませた。
「これからもこの店を贔屓にしてやって下さい」
礼を伝えに来たリベラル系知識人に、中田会長は深々と頭を下げた。彼は先日Xで中田会長をこき下ろしていたが、これでもう彼のことを悪く言えない。中田会長のことだ。ママを通じて、女をひとり持ち帰りさせるだろう。あの知識人は陥穽に嵌まった。
中田会長は三日に三度のペースで店に顔を出したが、私がテーブルに呼ばれることはなかった。閨の順番を待つ情婦の気持ちがわかるような気がした。私は笑顔で他の客をあしらっていたが、中田会長の甲高い笑い声に、内心は腸が煮えくり返っていた。
ああ、こんな風に怒りが心頭に発して、則天武后は皇后と蕭妃の四肢を切断して酒壺に投げ込んだのだろう。
「おまえは怖えよ。仕事じゃなくても自分の気に入らない男は殺しちまうし。まるで則天武后の生まれ変わりだ」
モノを知らない私に、元夫が教えてくれた。
「中国が唐と呼ばれていた時代、高宗皇帝の妾になり、本妻や他の愛人、王室に繋がる家臣、女子ども、自分の兄弟もすべて根絶やしにした、人類史上の悪女だ」
私は内心、え、女じゃなくても人が本気で怒ったらそれぐらいやらない?と思った。
則天武后は高宗皇帝に代わり政治を執り、大宮殿のハーレムを建てたという。それは楽しそうだ。傘寿で死ぬまで絢爛豪華な宴と男を、囚人の身になった後も続けた。それは女の夢だと返したら彼は呆れていた。
久し振りに会ってみたいな。死んだはずの私が現れたら、腰を抜かすどころではないだろうけど。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。