2024.08.25
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第4話 その3】
やれやれ。今夜の仕事はとりあえず延期だ
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第4話 その3】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)
■ 四人目の殺し屋:北村みゆき(36)
(これまでのストーリーはこちらから)
私はスマホを持ち直す。今夜決める
「あなたにしてはめずらしく時間が掛かっているじゃない」
№ゼロだった。私をこの世界にスカウトした女。
「依頼主がやきもきしている。ネット速報がいつ出るか、スマホから目が離せないって」
中田会長の側近連中だった。面従腹背の連中が彼を抹殺しようと企てていた。
自分の手を汚すこともできない輩が椅子にふんぞり返りやがって。私はスマホを持ち直す。自分に言い聞かせるように№ゼロに伝える。
「今夜決める」
こうしたアイディアも中田会長によるものだ。中田会長が逝けばSPMは早晩、ジョブズを失ったAppleと同じ道を辿る。繁栄が続くように見えても、カリスマ創業者を失った企業は崩壊への坂を転がり落ちていく。歴史が証明している。
この日、中田会長は終始ご満悦で、私を連れて楽屋を回った。ステージに上がらないかと持ちかけられた。
「ウチの新しい商品を持ってニコッと笑うだけだ」
自分で言うのも何だが、6万人を前にしてできないこともない。しかし殺し屋は人前に出ないものだ。丁重に断った。
その目の奥には憎悪の炎を滾らせていた
「五年以内にSPMの売り上げを十倍にします。飲むだけでガン、エイズ、コロナを治すサプリメントを開発中です。ご期待下さい」
観客はライブを観てハイな気分にある。中田会長の妄言はヤンヤの歓声を浴びた。
ところがだ。中田会長はステージを降りるとき、足下がよろめいた。いかにも善良そうな顔をしたお付きの者が慌てて手を貸したが、中田はその手を払いのけた。このお付きが、今回の暗殺計画の黒幕だった。中田会長の下で働くようになってまだ数年しか経っていない。創立メンバーはみんな故人か、追放してしまった。彼の周りには表面的なイエスマンしかいない。
「会長、素晴らしいスピーチでした。株主のみなさんは感動して泣いていました」
中田会長はお付きのほうを見ることもなく、ずかずかと通り過ぎていった。私は見逃さなかった。お付きの男が憐れむような目で中田の背中を見送りながらも、その目の奥には憎悪の炎を滾らせていたのを。
この男も必死なのだろう。切られる前に切ると考えたのだ。
私は中田会長の後を追う。お付きの男の足を踏みつけてその場を去った。
欲しいのか。やるぞ
VIP中のVIPの部屋に通される。足が沈みそうなほど深い絨毯。室内は名画・名品が飾られていた。私は一枚の大きな絵画に息を飲んだ。ハープシコードを弾く女、リュートを弾く男、歌う女。窓から光が飛び込んでくるこのタッチ。見間違えようがない。
フェルメールの『合奏』だ。私がどうしてこんなに驚いているのか、今さら説明するまでもないだろう。フェルメールの『合奏』は1990年にボストンの美術館で盗まれて以来、消息が掴めていない。「美術史最大の盗品」をここで拝めるとは。
『合奏』の前で釘付けの私に、中田会長は事もなげに言った。
「欲しいのか。やるぞ」
私は首を横に振ることもできなかった。どんなに美術作品の世界が暴落しようと、フェルメールの作品は一点、200億円を下回ることはない。それを「やるぞ」と言われても。
部屋の中の絵を見て回る。ピカソ、ルノアール、シャガール、東郷青児があった。しかしもっとも目を引いたのは、ひとりの裸婦を描いた、サイズ的にも小さな作品だった。それこそ『合奏』より私の心を奪った。相当な画家に違いない。サインを見た。我ながら卒倒しないのが不思議だった。英語で「Takafumi.N」とあった。
振り向くと、中田はこくりと頷いた。
これで話は別になりますか?
私とふたりきりなのに横暴な物言いになっていた。おかしかった。照れているのだ。
「画を描き続けていたら、SPMより売り上げが大きかったのでは」
いやいやいやと中田会長は首を振る。
「売れる絵なんて、意味なんぞない」
「この人は、誰」
私は裸婦を指差す。
「むかし、愛した女だ。愛し合ったことはなかったが」
私はもう一度絵を眺める。勝手な思いだが、私に似ている気がした。
「最近は、描いているのですか」
中田会長は溜め息をつく。
「そんな時間も気力もない。いいモデルでも見つけたら、話は別だが」
私は長い髪を解いた。ハイヒールを脱ぐ。それからゆっくりとワンピースの背中のファスナーを下ろした。ブラジャーとショーツを取って、生まれたままの姿になって彼のほうを向いた。
「これで話は別になりますか?」
中田は立ち上がる。部屋の隅で埃を被っていた画材一式を用意すると、イーゼルを立たせてキャンバスに素描を始めた。やれやれと思う。今夜の仕事はとりあえず延期だ。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。