2024.08.26
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第4話 その4】
最高の殺し方を頼む
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第4話 その4】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)
■ 四人目の殺し屋:北村みゆき(36)
(これまでのストーリーはこちらから)
私は慰めることもできなかった
中田会長と私は金持ちとホステスの関係ではなく、画家とモデルのそれになった。
激務を終えてから中田は部屋にやってくる。ネクタイを外してキャンバスに向かうとき、彼は毀誉褒貶ある経営者から名も無い画家に変わる。一心不乱に絵筆を走らせる姿は鬼気迫るものがあった。おかげで素晴らしい作品が描きあがった。
「素敵……」
私は歓喜の声をあげた。
すっかり絵に魅了されているため気付かなかった。私の背後で、中田がペインティングナイフを持っていることを。やられたと思った刹那、彼は刃を切りつけた、ようやく完成した作品に。
「これではダメだ」
中田は同じ言葉を繰り返した。私は慰めることもできなかった。
それからというもの、中田は一層、描画に没頭した。
見られたくない。でも見てほしい
中田は何度も描き直した。私は彼の真剣な顔つきに頬が熱くなることもあった。いけないと思いつつも乳首が上向きに尖り、内股を擦らせた。彼は私の思いを知ってか知らずか、上気した肌に気が付くと、「暑いか」と部屋の温度を下げた。
それまで卑猥なポーズを要求することはなかった。しかしキャンバスを切り裂くことに飽きると、丸裸の私を絨毯に座らせて、静かに命令した。
「脚を開きなさい」
男を知らない乙女のように恥じらった。そこがどうなっているのか、見られたくない。でも見てほしいと矛盾する思いに激しく潤った。
中田はあるときキャンバスに向かいながら、自分のことを語り始めた。月が輝く夜だった。
「死にたいと思ったことはあるか?」
唐突な問いだった。私は、毎日と答えたかった。
中田の弱気を初めて聞いた。
「お金、社会的地位、この世のほとんどのものを手にしたのに?」
「自分を、家族を犠牲にして人より汗をかいてきた」
「お子さんは?」
暫しの間があった。月が石に変わるほどの沈黙があった。
「息子は死んだ」
№ゼロの調査レポート通りだった。中田会長の言動が人の道を踏み外すようになったのは、ひとり息子を失ってからだ。皮肉なことに、それからSPMの売り上げは天井知らずになった。世間のイメージを遵守することで、自社の株価を安定させている。
中田は会社を休んだ。私は同じベッドで眠った。
「何もせんでいい。寄り添ってくれないか」
私は彼のためではなく、自分の欲望のために、後ろから手を伸ばした。
「すまんが……本当にいいのだ。ワシは妻が死んでから、女は断っている」
中田はほどなくして寝息を立てた。
そっと体を離して萎びた老人を見下ろす。残酷、狂気、濫費。冷徹、寛大、周到。すべて持ち合わせた、哀れな則天武后がそこにいた。
金持ちでなく、画家として死ねる
精も根も尽き果てた中田は椅子に腰を掛けると、まるでそれが人生最後の呼吸のように深々と、思いの丈を込めて息を吐いた。
「いつでも殺していいぞ」
私の呼吸が止まった。どんな繕いも口から出なかった。
「筒抜けだ。スパイを送り込んでいるからな。イエスマンのお付きなら、三日前に死んでもらった。一味も全員」
この期に及んで私は視界に凶器がないか探した。おそらくドアの向こうでは私を捕らえようと武装団が待ち構えているはずだ。しかしそうした心の動きまで彼の手中にあった。
「安心せえ。あんたには感謝している。金持ちでなく、画家として死ねる」
「どういうこと」
「癌だ。もう長くはない」
中田は引き出しを開け、それを机の上に置いた。
“中田高文 全財産委譲の遺言書”とあった。
「サインをすればこの部屋にある絵も、会社も、すべてあんたのものだ」
ここで泣いたら安手のドラマだ。私は涙声になるのを懸命に堪える。
「どうして……どうして」
続きは言葉にならなかった。
「ケイと名前を変えた凄腕の女殺し屋が雇われたことも聞いていた。お手並み拝見と思った。おかしな話だが、店であんたをひと目見たときに感じたのだ。ああ、この女だったんだな、わしが待っていたのはと」
私たちは見つめ合った。信じ合った。わかりあった。そして最期の時間が近づいていることも知っていた。
「信じてもらえるかな、こんな年寄りの戯言を」
視界が滲む。頬を濡らすものを感じる。
「わしを変わった男と思うか? 普通だよ。だからこそ大衆の気持ちを掴んで成功した。あんたには散々甘えてきたが、最後に頼みがある」
聞きたくなかった。しかし耳を塞ぐこともできなかった。
「最高の殺し方を頼む。この世から去って行くことを感謝できるような、素晴らしい死に方を」
私はリップを塗った。そして、名も無い画家に接吻した。
男は謎だ。この仕事をしてずいぶんになるが、男のことがどんどんわからなくなっていく。あれからしばらく経つが、いまだに自問する。
遺言書は置いてきた。フェルメールもピカソもそのままにして部屋を出た。一枚の絵だけもらってきた。
知れば知るほど男を見下している私だが、それでも特別な人がひとりだけいる。仕事を終えるたび、別れた夫のことを思い出す。
男の名は、錐縞ヒロシ。
四人目の殺し屋、北村みゆき。コードネーム:最高の夜(Slay Night)
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。