2024.10.23
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第5話 その1】
パパまた泣いてるー
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第5話 その1】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)
(これまでのストーリーはこちらから)
そういえばこないだ娘さんを見かけましたよ
【1】
こっさんは丸首のセーターに足下は突っかけで、買い物カゴから長ネギが飛び出していた。いつものロッカーには一枚のメモしかなかった。はよ済ませてやと心で思った。「帰ったらあの子の進学先について話しでもしよ」と、妻から言われていた。
指定されたホテルの部屋に入ると同時に顔つきが変わる。穏やかな家庭人の面影はどこにもなかった。
「お待ちしてました」
最近しゃしゃり出ている組織の若頭に、お供の者が同席していた。
「これなんですけどね、こっさんなら引き受けて頂けるのではないかと思いまして」
こっさんは息をのんだ。それでも顔には出さなかった。
「こんな大きな山はやらん」
写真を突き返した。
若頭はサングラスのブリッジを中指で押して、ほんの少し頬を緩ませた。人を小馬鹿にしたようなその表情が、以前からこっさんの鼻についていた。
こっさんが椅子から立ち上がると、若頭はいま思い出したかのように、用意していたセリフを吐いた。
「そういえばこないだ娘さんを見かけましたよ。ずいぶん大きくなりましたね。ノートルダムの制服がとてもお似合いで」
こっさんの突っかけが止まった。
「持ち帰ってお考え頂けないでしょうか。ご家族でお話し合いでもして」
若頭の懐にすっと入り込み、スーツの内ポケットから銃を抜き取る。
撃ち殺す。
若頭の骸を見下ろしながらこっさんは思う。瞬きをするまでこいつは生きていた。瞬きの前まで仕事に勤しみ、遊び、酒を飲み、こいつなりに生きてきた。けれども瞬きをした後、心臓の動きは停止し、死体に変わった。もう仕事も遊びも酒も楽しめない。二度と瞬きすることはない。
銃を骸に放る。こっさんはつまらなそうに言った。実際につまらないと思っていた。
「私もこの仕事が長い。こいつひとり殺っても組織が私を切ることはない。上に訊いておけ。本当に私に依頼したいのかどうか」
むかしからそうだが、シリアスなときは京都弁から標準語に変わった。お供の者が震えながら頷くのを確認すると、こっさんは部屋を出た。
部屋には骸とお供の者と、現職の総理大臣の顔写真が残された。
ソファにもたれながら、なぜ自分が泣いているのかわからなかった
スマイル 心が痛むときも
スマイルを忘れずに 心が折れそうなときも
空が曇っていても なんとかなるよ
スマイルがあれば 怖くても悲しくても
スマイルがあれば きっとあしたは
おひさまは昇り きみのために輝く
喜びで顔を照らす
悲しみの跡を消して 涙がこぼれそうでも
来るべき時がきた
やり続けなければならない
スマイル 泣くのはもうやめて
人生の価値を見つけられる
スマイルがあれば
ソファにもたれながら、なぜ自分が泣いているのかわからなかった。ナット・キング・コールの歌声に感動しているのか。憐憫か。それとも泣いてみたかっただけなのか。全部当てはまるし、全部的外れのような気がした。
「パパまた泣いてるー」
愛娘にからかわれる。妻が小さく笑っている。
にっこりと微笑み返すが、頭の中では違うことを考えていた。
── バケて出るからな。
先日殺したヤンキーはいまだに姿を現さない。道に迷っているのだろうか。あの世への旅路の途中に。
ナット・キング・コールの歌声が大きく伸びる。死んでも元気な人がここにいる。
勢いで組織の人間を一匹殺した。しかし連中のことだ。こちらが首を縦に振るまで依頼してくるに違いない。けれどもあんな大きなヤマを済ませたら、しばらくは日本に住めないだろう。
こっさんは妻と娘のほうを振り向いて、いま思い出したように、用意していたセリフを吐いた。
「この子の進学のことやけど、僕らも一緒に海外留学もええかもしれんな」
*
相手が大物ほど実行犯は複数になるのがこの世界の鉄則だ
わかっている。どうでもいいことを思い起こしているのは、どうでもよくないことが起こっているからだ。
小一時間前、映画館で受け取った「CENTRE THE BAKERY」の食パンを切ったら、一枚の写真が出てきた。首相だった。唖然とした。
第104代内閣総理大臣 源氏欣一朗。38歳。千葉県出身。東京大学法学部出身。自由民主党総裁。130人超の世襲議員が占める国会において、28歳で衆議院議員に出馬。初当選。政界随一の美男であることと明るいキャラクターから国民人気は圧倒的に高い。防衛大臣、外務大臣を歴任。38歳で内閣総理大臣に就任。保守本流の親米派。毎年8月には靖國を参拝している。妻は女優。
何かの間違いかと思った。これは「しばらく休もうと思う」と言った人間への仕打ちか? それとも旅客機の乗員乗客まるごと殺ってしまったペナルティのつもりか?
もし首相暗殺を実行したら、警察は総力を挙げて犯人逮捕に努める。長期間にわたって仕事はできなくなるだろう。高飛びしてしばらく大人しくしているには、それ相応の額が求められる。
こんな物情騒然必至の依頼を出した奴は何を目論んでいるのか。国家転覆か。少なくとも、日本の株価が下がることが不安じゃない者だ。そしてこの要請を受けたのは自分ひとりではないはず。相手が大物ほど実行犯は複数になるのがこの世界の鉄則だ。
Shunは天を仰ぐ。呪文を唱える。テキトーに、テキトーに。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。