2024.10.25
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第5話 その2】
もはや狙われる側
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第5話 その2】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/稲田一生 編集/森本 泉(Web LEON)
(これまでのストーリーはこちらから)
困ったことがあったらいつでもお訪ね下さい
ヒロシが玄関の扉を開くと、男は警察手帳を突き出した。名は四方田と刻まれていた。
四方田はマンションの隣人で、顔なじみだった。チャイムが鳴ったときにはエントランスではなく、直接玄関の扉の前に立っていた。
「何かありましたか」
ヒロシは努めて平静を装った。仕事のときはキラーエリートでありながら、日常の彼は何気ない振る舞いが苦手だった。四方田刑事はブラウンのフェドーラ帽を脱いだ。見窄(みすぼ)らしい頭部が露わになった。
「最近ここら一帯で不審者がうろついていると通報がありまして」
「そうですか。僕かもしれませんね」
四方田は不躾に中を見渡した。
「きょうはお仕事は」
「暇人なんです。一年で数日しか働きません」
「それは気楽な御身分ですな」
閉めようとしたらドアを足で挟んだ。四方田は何食わぬ顔でヒロシを見た。
会えば挨拶を交わす程度だった。互いの職業を名乗ったことはないが、ヒロシはひと目で彼の職業を喝破していた。どうして公務員がこのタワーマンションに住むことができるのか。親の財産か。それとも私腹を肥やしているのか。長らく小さな疑問だった。
〝警察は国が雇った暴力団〟。これはヒロシの私見だ。
刑事なら公私混同が当然。気になる女子大生のデータを、アイドルの住所も容易に入手可能。民間に売り渡していくらでも小遣い稼ぎができる。国家権力に仕える者の旨味だ。
シンプルな話、交番勤務のおまわりも力を持っている。パチンコ屋に行ったら玉が出るし、違法風俗店を見つけたらシメたものだ。毎日タダで女を愉しめる。
「刑事さん、きょうは用事があるのでこの辺で」
ヒロシが促すと、四方田はフェドーラ帽を被った。
「困ったことがあったらいつでもお訪ね下さい。隣の馴染みで」
ヒロシが扉を閉める。四方田の口臭が残った。
抱け。ただし愛情を持つな。こいつは並大抵の女ではない
暗くなる前に京都美山旅館「はら」に到着した。女将から連絡をもらっていた。
元禄の終わりから続く老舗の御宿で、政界の大物、財界の黒幕、保守派の長老が静養する宿は決まってここだ。皆ここの温泉と女将を目当てに訪れる。「やすらぎの郷」と呼ばれている。数年前に同名のドラマが放送されたが、常連客の脚本家がいかにこの旅館を愛しているかが窺えた。
三つ指をついて女将はヒロシを出迎えた。奥の間に通される。北大路魯山人の篆刻と書が飾られていた。天衣無縫の大才の彼もまた、この宿を好んだ。
懐石料理のコースのシメは女将自らすき焼きを作る。けれども手厚いもてなしにヒロシの頬が緩むことはない。
ヒロシは女将に複雑な感情を抱いている。彼の筆下ろしも、父親の死後ヒロシを引き取ったのも女将だった。
学校に通っていればまだ中学生のヒロシを、彼の父親は強制的に大人の男にさせようとした。父親は手向かう女将の頬を張った。あのとき裂かれた本場大島紬の模様を、ヒロシは生々しく記憶している。
「抱け。ただし愛情を持つな。こいつは並大抵の女ではない。一切の油断と同情を禁じる」
「あかん。堪忍っ、堪忍や」
苦い追憶が押し寄せる。あれから30年近い年月が流れたが、女将は美しく、抜けるような白い肌はそのままだ。星霜の分だけ幾分丸みを重ねたが、肉のまろやかさは増した。
総黒檀の座卓を挟んで、女将は背筋を伸ばして正座している。その姿は匂い立つほど高潔な百合を思わせた。
「ヒロさん、私はこれまであなたのお仕事に口出ししたことはありません。でも今回は別です。源氏首相はおやめなさい」
ヒロシは戦慄した。彼が依頼を受けたのは一昨日のことだ。どういう地獄耳なのか。女将は続ける。
「源氏首相は沈没するこの国を救って下さる大人物です。歴史に残る名宰相になられる方を、あなたの手で葬ることはない」
「話があると言うから久し振りにこの宿の敷居を跨いだら、そんな話か」
どこから聞いたとヒロシは問いたかったが、無駄なのでやめた。日本の政治の裏側まで知り尽くしている女将は、死ぬまですべて墓場に持っていく覚悟だ。締め上げたところで口を割るわけがない。
「女将、経団連会長からお電話です」
「待たせておきなさい」
ピシャッと音がしそうなほどの声で撥ね付けた。
「あんたに止められたところで俺がやめると思っているのか。俺は親父に教わった。〝いかなる巨人に行く手を阻まれようと最後までやり遂げろ〟と」
女将は恨めしそうに唇を噛む。千変万化に表情を変え、相手の感情操作を試みる。この女の独擅場だった。
「あの人も酷なことをしたわ。自分が老いる前に、ヒロさんに自分の哲学とダンディズムを移してから逝った」
ヒロシはまんまとこの女の掌に乗る。
「やめろ。俺は親父のコピーじゃない。犠牲者でもない。俺は、俺の意思で生きている」
女将は甘い目できつく睨む。
「きょうは泊まっていくのでしょう」
女将はヒロシの手を取って半襟の中に引き込んだ。指先に生ぬるく当たるものがある。
「新しい人は見つかったの。ヒロさんのことだから、不自由はしてないでしょうけど」
女将はヒロシの乾いた唇に、そっと舌を滑らせた。自分の意思とは離れて、固くなるものがある。あのときと同じように。
私におあずけを喰らわしたのは、ヒロさん、あなただけ
── 並大抵の女ではない。
ヒロシは父親の言葉を思い出す。その通りだった。彼を引き取ってからというもの、女将は毎夜彼の閨を訪れては、若い性を吸い尽くした。手取り足取り、自分好みの男を作った。
ヒロシは父親から殺し方を、母親から女の抱き方を教わった。
女将の細い指がヒロシの局部へと伸びる前に、彼は黙って立ち上がった。振り返ることなく襖を開く。恥を掻かされた女将は恨み節を彼の背中に投げ付ける。
「私におあずけを喰らわしたのは、ヒロさん、あなただけ」
それでも次の言葉は、彼女の中の母心が言わせた。
「私の耳に入っているということは、源氏首相の元にも届いている。あなたは狙う側ではない。もはや狙われる側」
ヒロシは後ろ手に襖を閉める。いつもより息を静かに吸う。
次の仕事のため、インド北部タージ・マハルを訪れていた女のスマートホンが鳴った。
XXXXの記号が映し出される。
額の真ん中にビンディーを付けたみゆきが電話に出る。かけてきたのは№ゼロだった。
「手を引いて。こんなことをあなたにお願いする日が来るとは思わなかった」
みゆきは声を潜める。
「源氏首相でしょう? 大丈夫。こっちの仕事が終わったらすぐに取り掛かるから。行きつけの店でも調べておいて」
受話器の向こうで№ゼロは声を振り絞った。
「源氏首相暗殺計画を聞きつけて官房機密費が投入された。あなたに妨害工作が行われる」
みゆきは息を飲む。背筋に冷たいものが走る。こんな恐れは、今までなかった。
「まさか……?」
№ゼロはその名を告げた。
「日本国政府は、〝最後の伝説〟イタミを雇った──」
刹那、風が吹いた。墓廟と尖塔を掠める。
みゆきは、タージ・マハルが鳴いたように見えた。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。