2025.01.02
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第8話 その1】
死んだってあきらめない
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第8話 その1】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/久 修一郎 ヘアメイク/勝間亮平 編集/森本 泉(Web LEON)
死んだはずの妻と麻布警察署で予期せぬ再開を果たしたヒロシ。罵り合いの苦い逢瀬を噛みしめる間もなく
留置場には"途轍もない何か"がやってくる気配が……。新たなる惨劇の始まりか。
(これまでのストーリーはこちらから)
俺がどんだけ泣いて過ごしてきたか。俺の涙を返せ
私らしい失敗だった。
タージ・マハルでの仕事を終え、帰国した。
SPM創始者中田会長の墓参りを終えてひとりで痛飲するつもりが、白金~麻布十番と飲み歩いていくうち男が欲しくなり、バーで会った年下の塩顔をホテルに誘った。
「えー、マジすか。お姉さん綺麗だけど、美人局とかじゃないの」
最近の男は意気地がない。美女の誘いを素直に受けない。
「お姉さんいくつですか」
「いくつに見える?」
酔いどれの頭で訊ねる。
「う~ん、三十五?」
ピキッとこめかみに走るものがある。
「違う? 三十八? でもウチのママより年上だよね?」
気が付いたら一回り年下のガキを投げ飛ばしていた。ここまでなら笑い話で済む。しかし駆けつけたパトカーと救急車を蹴って凹ませたのはまずかった。
警官五人がかりで取り押さえられ、麻布警察署の御厄介になった。
目が覚めたら留置場だった。私がまだパン助だった頃、たまに泊まったことがある。ヒマ潰しの警官を誘ってしけ込んだ。私も若かった。
弁護士を呼ぼうとした矢先、世間はそれどころではなかった。
建物の中にいても感じる爆音と地鳴り。戦争でも起こったのかと思った。
そうしたら次の日、謎が解けた。隣の留置場で、前夫に会った。
すべてはこいつのせい。疫病神、汝の名は錐縞(キリシマ)ヒロシ。
取調室でヒロシは私を睨みつけるのに飽きると、ドンと机を叩いて問い質した。
私はうざい視線を交わして、長い髪をかき上げる。風呂に入りたい。
「おまえ死んだんじゃなかったのか。俺がどんだけ泣いて過ごしてきたか。俺の涙を返せ」
知らね~よ。私は溜め息をつく。
「タバコない?」
私はふたりの間に入った見窄(みすぼ)らしい頭の刑事に訊ねた。刑事は胸ポケットからハイライトをくれた。ヒロシと再会したのはバッドラックだったが、留置場という場所とこのデカがいたことはラッキーだった。さもなきゃヒロシは半狂乱で暴れまくっていただろう。
久し振りのタバコは美味い。口からふ~っと煙を吐いた。
「おまえ、タバコはやめろって言っただろう」
男はみんな勘違いしてる。妻はセックス付きの家政婦じゃない
「〝おまえ〟ってさ、私はもうあんたの女じゃないし、たとえあんたの女だとしても、私は誰にも私のことを、〝おまえ〟なんて言わせない」
愛憎交じりのその顔に、タバコの煙を吹き付けてやった。
「〝おまえ死んだんじゃなかったのか〟? あんた何年この世界にいるの? 替え玉なんてめずらしくもないじゃない」
ヒロシは横の刑事を見る。やめろと顔に書いてある。私たちの仕事がバレると気にしているのだ。
「川島芳子みたいなものか」
頭部が見窄(すぼ)らしい刑事が、見窄らしい頭部を掻きながら呟いた。
「川島芳子……本名金璧輝。二〇世紀初め、清朝王族の娘として生を享けながら、六歳のときに満蒙独立の陰謀に奔走していた大陸浪人川島浪速の養女になる。以降、日本で育った芳子は満州事変で日本の参謀本部に協力。拳銃を腰に下げて馬に乗る姿から、〝男装の麗人〟〝東洋のジャンヌ・ダルク〟と呼ばれた。しかし日本が戦争に負けると当時の中国政府に捕まり、銃殺刑に処せられた。後頭部から撃ち抜かれたため顔に大きな孔が空き、人相が判別できなくなったことから、実はあのとき殺されたのは別人で、川島芳子は生きているのではないかと言われた、ってやつだよな」
この刑事、学があるなと思った。頭部は見窄らしいけど。
ヒロシは鬼のような形相だった。歯軋りのしすぎで口の端から血が零れそうだった。ここに銃が無くて良かった。
「共通の知り合いの殺し屋が殺されたときもさ」
「バカやめろ」
「犯人は殺し屋の妻で、浮気が許せなくて殺った。そしたらあんた、何て言った? 〝男の浮気を許してやるのが妻の度量だ〟? 〝女の浮気はダメなの?〟って訊いたら、〝女はダメ〟。おまえはイスラム教か!」
「落ち着け」
「どんどん思い出してきた。あんたこうも言ったよね。〝仕事を辞めて家に入ってくれ〟。私の仕事がわかってて結婚したんじゃないの? あんただけじゃない、男はみんな勘違いしてる。妻はセックス付きの家政婦じゃない」
「弁護士が来たようだな」
私は立ち上がる。黙って部屋を出ようとする私に向かってヒロシは言った。
「俺が怒ってんのはなあ、おまえが死んだって聞いていたのに、生きていたことだよ。どうしてそんな嘘をつく必要があった? 別れたいなら別れたいって言ってくれりゃあ良かったじゃないか」
私は振り返る。かつては愛したこともあるが、今の私にはつまらない男に言ってやった。
「私が死んだってことにでもしないと、あきらめてくれなかったじゃない」
「死んだってあきらめない」
見つめ合っての即答だった。私は部屋を出た。
一昨日の夜から何もかも失敗だ。だけど私は悪くない。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。