2025.01.03
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第8話 その2】
何かがここにやってくる
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第8話 その2】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/久 修一郎 ヘアメイク/勝間亮平 編集/森本 泉(Web LEON)
死んだはずの妻と麻布警察署で予期せぬ再開を果たしたヒロシ。罵り合いの苦い逢瀬を噛みしめる間もなく
留置場には"途轍もない何か"がやってくる気配が……。新たなる惨劇の始まりか。
(これまでのストーリーはこちらから)
「泣いてるじゃないか」「嬉し涙です」
俺は留置場で天井を見上げていた。これが現実とは思えなかった。
死んだと思っていた妻とは涙と感動の再会にはならなかった。
罵り合い、わかりあえなさだけをわかりあった。
「御傷心のところ申し訳ないんだけど、あんた戸籍ないのな。錐島ヒロシって名前も本名じゃないな?」
取調室に残された俺に、四方田刑事が声をかけた。俺も本名を覚えていない。
「な~にが『この建物の壁一面ぐらいは俺の血税で建てられた』だよ? 税金払ってきてないんじゃない? 別荘にいるの、ちょっと長くなりそうだな」
四方田は見窄らしい頭を撫でた。
俺は思案に暮れていた。イタミに命を狙われて、ここにちょいとの間逃げ込むつもりが、長い刑期になりそうだった。源氏首相暗殺の仕事はどうなるのか。この状況では詮ないことを考えていた。
ポン引きとヤク中と男娼は留置場の隅でひそひそと話を続けている。
「どうしたのかな。戻ってきてからずっと考え事だ」
「さっきのあの女、むかしの女房らしいぞ」
「アニキも自分で苦労を背負い込みたがるタイプね。女は従順なのがいちばんよ」
俺が振り向くと連中は跳びはねた。
「ど、どうしたんですか」
「何か御用でしょうか」
俺は連中のつまらない顔をしげしげと眺めた後、考え無しに口にしてみた。
「このままおまえらと、ずっとここにいるのも悪くないかもな」
「どうした。不服か」
「ま、まさか」
ポン引きが震えている。
「泣いてるじゃないか」
「嬉し涙です」
三人とも涙を流している。俺のためにそこまで。
「おまえらとはここを出ても、一生付き合ってもいいぞ」
ヤク中がぶるんぶるんと首を横に振る。
「どうした」
「お腹いっぱいです」
おかしな奴らだな。
野生の唸り声が聞こえないか。獣の臭いを感じないか
昨日より部屋が暗く感じた。時計の秒針が低く留置場の時を刻む。睡魔は訪れてくれなかった。署内が異常に静かだった。日付が変わる頃、うとうとし始めたがそれも一瞬で醒めた。
何かがここにやってくる。途轍もない何かが。俺のこうした予感は外れたことがない。だからこの歳まで殺し屋稼業が務まってきた。
インドネシアで仕事を終えた後、スマトラ島でバカンスを過ごした。二十代の頃だ。年の暮れだったのでこのまま島で新年を迎えてもいいなと暢気に構えていた。イヤな胸騒ぎがした。ここにいてはいけないと誰かが俺の耳元で囁いた気がした。俺は前日ナンパしたイタリア女をベッドに残して服を着た。
チャーター便で上空から島の全貌を眺めた。パイロットが騒ぎ出した。海の向こうから白い波濤が見える。これは大変なことになると。
スマトラ島は波に呑まれた。すべてを洗い流した。俺が島を離れてから三時間後のことだった。
親父の口癖だった。
「一流のプロボクサーを見ろ。対戦相手と至近距離に構える。反応が0.1秒遅れたらリングを這うことになる。覚えておけ。攻撃は最大の弱点だ。パンチを出した後が、もっとも無防備な状態になる。何がもっとも重要か。技術か、度胸か、運か。長期政権を築いたボクサーには共通点がある。直感だ。でなければ、どうして挑戦者が左のジャブからフェイントで右のストレートを繰り出した後、アッパーでくるなどとわかるのか? 挑戦者も考えていなかった、体の反応から出たコンボを見抜けるのか? どれだけ経験を経ても、たどり着けない領域がある。直感は鍛えようにもどうにもならない、天賦の才能だ。ヒロシ、おまえにあるかな」
親父、おかげで俺は生きて残ってきた。少なくとも昨日までは。
耳を澄ませ。野生の唸り声が聞こえないか。嗅覚はどうだ。獣の臭いを感じないか。
俺は口元にシャツの袖をやる。なるべく息を吸わないように。できることならここから逃げ出したかったが、檻の中ではじたばたすることもできない。来客を待つことにした。
通路の向こうから奴がやってきた。およそ三十時間ぶりの再会だった。
俺の直感は遅すぎて、クソの役にも立たなかった。
「錐縞ヒロシ、会いたかった」
俺のほうはそんなことないぞと、〝最後の伝説〟に言ってやりたかった。
しかし誘眠ガスの威力はどうしようもなく、俺は意識を失くした。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。