2025.01.04
樋口毅宏『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』【第8話 その3】
生き恥と死に恥、どっちがいい?
孤高のハードボイルド作家、樋口毅宏によるLEON初の連載小説『クワトロ・フォルマッジ -四人の殺し屋-』 。エロス&バイオレンス満載の危険な物語の【第8話 その2】を特別公開します。
- CREDIT :
文/樋口毅宏 写真/野口貴司(San・Drago) スタイリング/久 修一郎 ヘアメイク/勝間亮平 編集/森本 泉(Web LEON)
死んだはずの妻と麻布警察署で予期せぬ再開を果たしたヒロシ。罵り合いの苦い逢瀬を噛みしめる間もなく
留置場には"途轍もない何か"がやってくる気配が……。新たなる惨劇の始まりか。
(これまでのストーリーはこちらから)
気になったのは奴がペニスバンドを装着していたことだ
目を覚ましたときには丸裸に剥かれていた。だけでなく、右腕と右足、左腕と左足を固く縛られていた。足はM字開脚に。恥辱の極みだった。
「お目覚めかい」
見上げると俺を生け捕りにしたイタミが聳え立っていた。留置場に寝転がされた俺には余計に大きく見える。
ヒルズで見たときと印象は変わらなかった。短く刈り込んだ黒髪。鋭い鷹鼻。眉と目と口唇。筋骨隆々というより無駄な肉がない。それでも女にしかない艶があった。全身を黒のレザーで決めていた。そこまではいい。気になったのは奴がペニスバンドを装着していたことだ。見たことのない大きさだった。〝最後の伝説〟とはこのことかと思うほどだった。大袈裟ではなく、見上げる角度によっては奴の顔が見えなかった。
俺はたじろいだ。これからどんな私刑が待ち受けているのか。
恥も外聞もないとき、俺は躊躇(ちゅうちょ)しない。同部屋のポン引きとヤク中と男娼を起こそうと体を転がした。しかしどういうわけか、拘束されているとはいえ、思うように体が動かない。それに連中は「立ったまま寝ます」と約束していたのに、留置場の隅で重なっていた。イタミが冷たく言い放つ。
「無駄だ」
三人とも喉元を切り裂かれていた。落ち着きのあるグレーの床に血の湖面が広がっていた。可哀想に。ここを出た後も俺と仲良く過ごしたかっただろうに。
イタミが頭を撫でる。手加減を知らない童が犬猫と遊ぶときの表情に近かった。予想通りだった。奴は俺を脇に抱え込むと、尻を叩いた。ピシャリ! ピシャリ!と、乾いた破裂音が署内に駆け巡る。ブザマな人間太鼓を、誰も助けに来てくれなかった。
「貴様のように女をナメている奴は、お仕置きが必要だ」
そのひと言でわかった。こいつは俺が一昨日、病院の「定期検診」で何をしたか知っているのだ。尾けられていたことも気付かずに、俺は医者と看護師と2Rこなしていた。
尻の皮膚が破けて、血が滲んだ。この時点で何度か気を失った。イタミは俺をひっくり返すと、問答無用とばかりに尻肉を剥いた。風呂に入ってない孔を凝視とは、みゆきにさえされたことがない。
都合のいい穴になった気持ちはどうだ
身長百八十五センチ、体重七十二キロの俺が、奴を支点にして宙に浮いた。
イタミはそれを軸にして、俺の体をぐるっと反転させた。向かい合うと、奴は楽しそうに笑っていた。俺は哭くしかなかった。
「都合のいい穴になった気持ちはどうだ」
女たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。名前も思い出せないのが大半だ。俺は彼女たちの加害者だったのだろうか。
俺がこの業界にデビューする前、親父は俺を抱いた。くどくどと説明はしなかった。当たり前のように、俺の中に押し入ってきた。親父は男色家ではなかったが、いま考えてみると、あれはこの世界に足を踏み入れた俺が理不尽な性暴力を受ける前に、免疫を付けておいてやろうという親心だったのだろうか。
──男らしくあれ。男らしく生きて。男らしく死ね。
親父の教条は呪詛になり、自らも蝕んだ。
だからなのか。イタミに右腕を奪われようと、「あれだけは敵に回すな」と俺に助言するのが関の山だった。「女にメンツを踏み躙られた」「女なんかにやられて恥だ。男の沽券にかかわる」と思っていたから親父は多くを語りたがらなかった。〝最後の伝説〟の正体がわかったいまとなっては解ける。
断っておくが俺は無理矢理女を抱いたことはない。未成年はひとりもいなかった(と思う)。アブノーマルなプレイを強いたこともない。全員に期待値を上回る悦びを与えてきたと思っていた。しかしそれも俺の思い込みなのだろう。本当は痛かったのに、やめてほしかったのに、嫌われたくなくて、俺を迎え入れた女もいたかもしれない。イタミが俺にやったことは、全女を代表しての復讐だった。
私は女だけは殺らないと決めている
「私の一番古い記憶は、父親が母を殴っている光景だ。私が泣いて頼んでも、父親は聞き入れなかった。家父長至上主義の父親は、妻と子どもは所有物で、自分の好きにしていいものと思っていた。男は父親と私だけ。母だけでなく姉と妹も、大人になっても男に翻弄される人生を送った。だから私は、女だけは殺らないと決めている」
「私の初めての殺人は、姉を殴った男だった。そいつは日系三世の私たちを差別していた。殺さない理由などなかった。同じ年、私は十五歳の誕生日に自分のペニスを切断した。これを野放しにしてはいけないと感じた」
イタミは緩めていた腰の動きを急がせた。俺の前立腺はすでに壊れていた。とめどない絶頂地獄に苛まれた。際限がない。どうせ俺を嬲るなら、いっそ殺してほしかった。
「二十歳のとき、殺しで稼いだ金で、性転換の手術を済ませた。翌年、子どもを出産したがこの手で殺した。父親と同じモノをぶら下げていたからだ」
イタミは、ふんっと最後のひと突きを終えると粗雑に抜いた。人形のように俺は気を失った。奴は仁王立ちし、勝者のように俺を見下ろしていた。奴の顔が見えない。俺は薄目で、あんな大きなモノが入っていたんだと、今さらながら感心するやら呆れるやら、醒めやらぬ只中で見た。
貴様の前立腺は破壊した
〝最後の伝説〟による、甘露の恵みだった。生温かい体液が俺の顔を叩く。ゴボゴボと口の中に注ぎ込まれて咳き込んだ。顔の汗と涙と体液が洗い流された。
イタミは何事もなかったように腰を二、三度振ると、ファスナーを上にあげた。ここに来たときと同じような感じに見える。しかしもう一度同じことを繰り返すとしたら、俺は最後の力を振り絞って舌を噛み切っていたに違いない。
「貴様の前立腺は破壊した。世界中の名医から〝再起不能。全治一生〟の診断が下るだろう。ここで貴様に問う。生き恥と死に恥、どっちがいい?」
何ということか、俺に究極の選択を突き出した。
生かしておくということは、俺には自分を殺せない。無害だと判断したということだ。SSRのキラーエリートを自称する俺に、これ以上の侮辱はなかった。
──これから生き恥を抱えて生きていけ。そしておまえも私の伝説を伝搬しろ。
そう言いたかったのだと思う。
中国は古くから「生き恥」の文化だ。紀元前の史家、司馬遷は武帝の怒りを買い、宮刑、つまり男根切断を受けた。日本は死に恥の文化。晒(さら)し首がそのひとつだ。
迷うまでもなかった。
「殺せ」
思っていた返答と違ったのか、イタミは目を見開いた。
それから俺の頭を、小便と汗まみれの髪を撫で撫でした。よく言った、褒めてやるとばかりに。
それ以上は何も言わず立ち上がると、留置場を出て通路の奥を歩き、自分が来た道を戻っていった。最後まで神々しかった。惜しむらくは、二度と会いたくなかった。
本来ならすぐさま体を起こしてこの隙に逃げるべきだったが、相変わらず俺の体はピクリとも動かなかった。
一、二分とかからなかったと思う。〝最後の伝説〟はすでに用意していたようで、大量のガソリンの臭いがした。それから通路の奥の階段から手榴弾とダイナマイトが百個ほど転がり落ちてきた。手段を選ばない奴だと思った。火薬の臭いがした。それでおしまいだった。
閃光が閃光を呼ぶ。目を開けていられないほどの大きな光に包まれる。激しく地が揺れる。麻布警察署はビルごと爆破された。
● 樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。出版社勤務の後、2009年『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。11年『民宿雪国』で第24回山本周五郎賞候補および第2回山田風太郎賞候補。12年『テロルのすべて』で第14回大藪春彦賞候補。13年『タモリ論』がベストセラー。他の著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』『東京パパ友ラブストーリー』『無法の世界』、エッセー『大江千里と渡辺美里って結婚するんだとばかり思ってた』など。妻は弁護士でタレントの三輪記子さん。