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2022.01.17

大泉 洋を輩出した、伝説の番組『水曜どうでしょう』は、なぜ大人気になったのか? ミスターが語る!

1996年、北海道テレビでスタートしたバラエティ番組『水曜どうでしょう』は大泉 洋をスターにのし上げ、今も再放送が続く超人気番組です。その企画・制作を担当し、自らも「ミスター」として出演していたのが鈴井貴之さん。業界の常識を覆した人気番組はどのように生まれたのか?

CREDIT :

文/相川由美 写真/椙本裕子

既成概念に囚われず、その行動によって時代を切り拓いてきた「カッコいい大人」たちを紹介する今回の特集。ご登場いただくのは、北海道テレビ発の伝説の人気番組『水曜どうでしょう』を企画した鈴井貴之さんです。

その名前を聞いてわからない方も、番組に登場して若かりし大泉 洋さんと過酷な旅をしていたイケメンの“ミスター”といえば「あの人!」とピンとくるでしょう。
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「低予算、低姿勢、低カロリー」の三大要素をスローガンに掲げて

── 『水曜どうでしょう』は1996年のスタートですが、今でも昔の番組が地方局で繰り返し放送されている超人気番組です。全国的に熱狂的なファンも多いと聞きますが、鈴井さんは企画の立ち上げから番組に関わっていたそうですね。

鈴井 そもそも『水曜どうでしょう』が始まる前に、北海道テレビで深夜の帯番組をやっていたんです。それに大泉 洋が出演していて、僕も制作に関わっていたんですが、局の方針で打ち切りが決まってしまいました。当時の制作陣が「1曜日だけでも番組を残してくれ」と懇願した結果、水曜日の深夜帯だけ自社制作の番組ができるようになったんです。

ただ、当初は半年間だけで終わると聞いていたので、であれば、もう「好き勝手やろうぜ」みたいな(笑)。ある意味期待されてないところからの天邪鬼な考えで、地方ローカルの番組は基本的にその土地に根差した内容をやるのが主流だけど、あえて「北海道じゃないところでロケする番組を作ろうじゃないか」というところからスタートしたんです。
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── では、当時はこんなに全国区の人気番組になるとは想像もしてなかったんですね?

鈴井 もちろんです。それが番組販売という形で、いろんな地方の放送局が買ってくださって。早かったのは、神奈川と宮城と静岡ですね。それでどんどん広まっていった感じです。逆に東京では放送されなかった。だから地方のかたほどファンが多い(笑)。

── 『水曜どうでしょう』の放送がスタートした1996年は、日本テレビの『進め!電波少年』でも猿岩石がヒッチハイクの旅をしていて、それぞれの番組が、ハンドカメラひとつ持って旅をするスタイルの先駆けだったように思うのですが。

鈴井 それは大手さんとは全然違ますよ。日テレさんは予算があって、ユーラシア大陸とか横断できたんでしょうけど、我々は本当に予算がないところから始めているので。1本単価だと番組が作れないから、10本分の予算で遠いところに行って10本分撮ろうという苦肉の策ですね。
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最初の企画なんて本当に申し訳ないけど、アーティスト・インタビューをブッキングして、東京までの飛行機代をレコード会社さんに出していただいたり。観光協会で宣伝してほしい国はないかなってアンテナを張って探しまくったり。

とにかく僕らは、「低予算、低姿勢、低カロリー」の三大要素をスローガンに掲げてましたから。だから、カテゴリーとしてはバラエティ番組かもしれませんが、出演している我々にとってはドキュメンタリーなんです。いろいろ演出の手が加わっている番組は少なくないけど、「うちはガチでいこう」と(笑)。
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── ガチというのは、すべてが何も決めずにフリーということですか?

鈴井 海外に行った時も行きの飛行機で旅先のレンタカーを借りて、あとは〇月〇日にどこから乗るっていう帰りのフライトを予約するだけで、決まってるのはその2つしかない。その間は、どこに泊まるかも決まっていません。ヨーロッパに行った時は「ここをキャンプ地とする」って、ドイツで野宿したこともありますし(笑)。

それは本当にそうしたいわけじゃなくて、「そうなってしまった」。そこがたぶん見る人の共感を呼んだし、喜んでくださったのかなって。「この人たち、本当にやってるわ、そんなこと」って。やっぱり真実って伝わるんだと思うんです。しかも、今こそ大泉 洋はたくさんの方に知っていただきましたけど、当初は「誰?コイツら」みたいな感じですからね。
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ぶつかった時はぶつかって、きれいな結末は求めない

── 大泉さんの生のリアクションのおもしろさは、最初から演出に生かそうと思われていたんですか?

鈴井 それはやっていくうちに見つけた感じでしょうね。大泉くんのあのぼやきみたいなキャラクターがおもしろくなってくるのは、だんだんと。あの番組はいろいろ手探りでスタートしたので、「今回はこういう企画で、旅先の目的はこうで、これくらいの撮れ高で、こういう番組になればいいな」みたいな話は一切してないですから。

行ける場所に行くしかない。アメリカだったら「横断する」しかない(笑)。だから、行き当たりばったりで。途中でヘンなコスプレをし始めたのも、たまたまカジノで大泉くんが負けて、その罰ゲームで立ち寄ったところに変な衣装を売っている洋品店があったから、「これ大泉に着せてやろう」って。そうやって流れに身をまかせながら形成していくタイプの番組でしたね。
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── 鈴井さんは企画で参加しながら、出演もしているというおもしろい立ち位置でしたね?

鈴井 最初は企画書を何本も書きましたけど、実際にロケに行っている時は一出演者として覚悟して臨みました。ガチでやるからには、自分の本音もさらけ出して、ぶつかった時はぶつかって、きれいな結末は求めないっていう。これが成り行きでこうなってしまったっていうところも、本当にオープンにしていこうと。

またカメラの嬉野(雅道)さんっていうのが本当にしつこいんですよ(笑)。起きてる間、四六時中まわしてるから、オンオフを作ったら疲れちゃうので。もうすべてをさらけ出さざるを得ないって感じですよね。今も、『水曜どうでしょう』を何回も繰り返し見てくださる人がいるのは、それだけ本当にドキュメンタリーだったからだと思います。
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「こういうことをやりたいわけではない」という思いがすごくあった

── 鈴井さんは大学在学中から劇団を立ち上げて、過激な舞台を上演していたそうですが、その「当たり前じゃないものを投げかけたい」という芝居に対する思いと、『水曜どうでしょう』の完全フリーなドキュメンタリーは、鈴井さんが目指す方向性と一致していたんでしょうか?

鈴井 いや、まったく違います。だから、葛藤はありました。当時、僕と大泉くんは「コンビの芸人さんですか?」と言われたし。僕は演劇や演出といった、作品を作るほうで頭がいっぱいだったので、自分では「こういうことをやりたいわけではない」という思いはすごくありました。
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ただ、当初はテレビを知っているのは構成作家をやっていた僕しかいなかったので、『水曜どうでしょう』も、最初のほうは僕がリードしてしゃべっているんですよ。途中から大泉くんのぼやきがおもしろくなって、「こっちがいいな」と思って。ちょうど映画の話もあって、「映画監督として作品を作るのでやめさせてください」と伝えて、
それで僕は番組を1回休んでるんですよね。

でも、映画を撮ってもう一度番組に参加した時に、それまで抱いていた疑念がなくなってスッと復活できた。今まで自分で線引きしていたことに何の意味があったんだろうって思って。それから、俺はもうしゃべらなくてもいいやって(笑)。復活したのが2001年ぐらいですね。
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10やったら9は失敗。人生を振り返ると9割は失敗ばっかり

── 鈴井さんが演劇の表現に惹かれたのは、何かきっかけがあったんですか?

鈴井 20歳の時に札幌にあった劇団で1回、お芝居したことがあるんです。そのころ、40年くらい前の札幌って、東京のいろんな劇団……唐十郎さんや寺山修司さん、東京ボードビルショーなどの劇団にいた人がUターンしてきて劇団を立ち上げて、共同で倉庫を借りて劇場のようなものを作って上演していたんですよ。

それで僕も、「欠員がひとり出たから探してた」っていう友人の紹介で、ひとつの劇団に入ったんです。でも稽古をしてたら、人間性を否定されるようなことを言われるんですよ。「おまえはなんでこの言い回しでセリフを言えないんだ。親にどう育てられたんだ」って。そこまで言われる筋合いはないよ、みたいな。「うわ、腹立つ。やってられないよ」と思ったけど、途中でやめるのは、役は小さいけど迷惑がかかるし、「終わったらやめよう」って思ってました。
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そうしたら、その打ち上げの席で「次はいつやるんですか?」って自分から言ってたんです。それは本当に小さい、百数十人しかお客さんがいない劇場ですけど、そこで僕が何かひとこと言うとみんな真剣に聞いてるわけですよ。300ぐらいの瞳が僕に集中してる。そのザワザワした感覚にショックを受けたんでしょうね。

ただ、そこは働きながらやっている人が多くて、僕は暇な大学生だったので、「じゃあ、ここの集団の若手を集めて、僕が新しい劇団をやっていいですか」って感じですぐに自分で作ってやり始めちゃったんです。そのお客さんと共有している独特の空気感に魅かれて、初舞台のときから、ずっと今日までやっているのかな、と思いますね。
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── また、映画監督としても4本の作品を撮っていますが、それは求められていく中で映画へも関心が向いていったということですか?

鈴井 いや、もともと僕は小学5年生の時から8ミリ映画を撮っていて、中学生の時には自主制作みたいな遊びもしていて、ずっと映画監督になりたかったんです。ただ、当時の北海道ではそんなこと夢見ていても、なかなか現実的じゃないので、大学進学で東京に出なきゃと思っていたんですけど、ことごとく東京の大学にフラれまして(笑)。

札幌に残って「あぁ、どうしようかな」と思っていた時に、もともと映像を作っていた幼なじみ経由で「舞台もできるんじゃないの?」と演劇に誘われたんです。原点としては、映画を撮ることは幼少のころから抱いていた夢だったんです。

── 演劇も映画も、作品を作る上での発想は繋がっていますか?

鈴井 そうですね。共通項として「こういうものが作りたい」と思った時の視点は、ちょっとずらすというか、すき間産業的なところを目指すというか(笑)。王道じゃない、ある意味邪道なものを探す節はあるかな、と思います。幼い頃から天邪鬼で、いろんな違った角度からものごとを見るイヤな子どもだったので(笑)、それが今日も続いてるんでしょうね。だから、10やったら9は失敗していますね。自分がいくらおもしろくても、しょせんは邪道だよねってことで、人生を振り返ると9割は失敗ばっかりだなって。
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── ただ、そのうちの1割は誰もやっていないことで大成功するということですよね?

鈴井 みなさんに喜んでもらえたりすると、「まだ頑張ってみれば」と言ってもらえているような気がしますね。とはいえ、9割は失敗してるんですけど(笑)。実はそれができるのも、北海道だからなんですよ。東京は代わりの人がいっぱいいるし、チャンスも巡ってこないから、「一か八か」ができないと思うんです。だから、本当は120点のものをやりたいけど、いろんなところから抑制されて70点のものをキープする、みたいな。

その点、北海道は前例も少ないから、120点を目指して失敗したら失敗したで、みんなで笑って「ダメだったな」って。でも、「もう1回やってみよう」ということを繰り返せるんです。その中で突破的なものが出てくる。そのいい例が『水曜どうでしょう』であり、大泉 洋だと思います。

あれを東京の番組でやったら、絶対プロダクションからイエスが出ないですよ。だって、「うちのタレント、何月何日はどこにいますか?」「どうやったら連絡が取れますか?」と言われても、「わかりません」としか言えないので(笑)。「そんな責任取れないようなところに出すわけないだろ」ってなりますよね。それが成立できたのも北海道だからなんです。
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みんな50歳過ぎてるけど、本来の自分たちに戻ってバカやろうぜ

── 現在、鈴井さんが主宰している演劇プロジェクトOOPARTSでは、2022年2月より舞台『D-river』を上演しますが、そのテーマも「人間は人工知能AI(愛)と共存できるのか!?」ということで、まさに鈴井さんの視点のおもしろさを予感させます。その発想はどこから来たのですか?

鈴井 AIと言っても、炊飯ジャーから冷蔵庫までAI搭載とか、将棋の藤井聡太さんの対局までAIが予想するというように、いろんなところにAIがありますよね。最近だとクルマにもAIが搭載されていて、僕は北海道で頻繁に運転をするものですから、自動運転が進化すれば、田舎暮らしの高齢者も体が不自由な人も、ずいぶんラクになるだろうな、と。
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ただ、現状としては運転アシストで抑えられているけれど、本当は人工知能とかロボットの技術ってかなり進んでるんじゃないかと思うんです。ただ、ここからは推測ですけど、実際に実用化したら、バスやタクシーの運転手、配送業の人、自動車整備工や自動車教習所など、膨大な自動車産業に関わっている人たちが失業してしまう。それは大変なことだなって。

そこには実は、いろんな企みや暗躍する人たちがいて、技術の壁というよりも、人間側の問題が存在するんじゃないかと。そういう意味での人間とAIとの共存を想像しながら、今回の物語を作り上げています。
── 出演する役者陣が、渡辺いっけいさん、温水洋一さん、田中要次さんなど個性派ぞろいで、すでにおもしろい舞台が期待されますが、どのようにキャスティングされたのでしょうか。

鈴井 勝手知ったる方たちです。かつてOOPARTSの舞台に出たことがある方たちばかりで、温水さんとはドラマでもご一緒したことがありますし、和気あいあいと楽しく稽古に入れる感じですね。しかも、これだけのキャリアと個性のある方たちが、出し惜しみなく自分のスキルを出してくださったら、相乗効果としておもしろいものこの上ない芝居になると思います。
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みなさん年齢的に、どの現場でも上のほうの先輩になるので、後輩がいたら大人の素振りを見せなきゃならないですが、僕も含めてみんな50歳過ぎてるけどバカなんですよね(笑)。もはや同級生が集まったら先輩ぶる必要もないので、「本来の自分たちに戻ってバカやろうぜ」みたいな感じでやれればいいな、と。「おっさんが何ハジケてんのよ」っていう舞台を作り上げたいと思って、みなさんにお願いしました。
── まさにLEONの読者層とも重なる年頃ですが、そんな中年男性にとって今回の舞台の見どころとは?
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鈴井 僕もたまにLEONを拝見していますけど、皆さんもLEONを見て素敵な洋服を纏っているのは、もちろん洋服が好きだというのもあるでしょうけど、いろいろ対外的な目を気にして、会社へ行ったら部下の手前とか、いろんな視線がありますから、きれいになさってるんだと思うんです。でも、この舞台を観に来たら、中年男性の方々は我々と同級生ですから(笑)。「あぁ、そうだな。中学生の時はみんなこうだったよな」というように気持ちが戻ってくれればいいかな、と思います。

今、定年を迎えるとか、セカンドライフとか、終活とか、いろんなことを考えていらっしゃるかもしれませんけど、もう1回なりふりかまわず、青くさい気持ちを持つタイミングも必要なんじゃないかなって。だから、今回のテーマは「青くさくやりたい」と思っています。舞台を観て、「俺もあのバカの中に入りたいよ」と思ってもらえたうれしいですね(笑)。

【関連記事】 特集/大人の“カッコいい”を取り戻せvol.4
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●鈴井貴之(すずい・たかゆき)

1962年、北海道生まれ。北海学園大学時代に演劇の世界に入り、1990年に「劇団OOPARTS」を立ち上げ数々の刺激的な作品で人気を集めた。1992年芸能事務所「CREATIVE OFFICE CUE」を設立。TEAM NACSなどが所属。1996年『水曜どうでしょう』(HTB)を企画。自らも出演して全国区で人気番組となり今も再放送が続く。2001年より映画監督としても活動を開始。作家としても活動しており、活動の幅は多岐に渡る。2010年より、OOPARTSプロジェクトを始動。作・演出だけでなく出演者としても積極的に活動。愛称は「ミスター」。

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OOPARTS  Vol.6 「D-river」(ドライバー)

あるミッションを遂行するために集められた中年男3人。何をするのかもわからず、約束されたのは高額な報酬だけ。指示があるまま用意された自動車に乗るも、一人はペーパードライバー、一人は免停中、もう一人は免許すら持っていない。ただその車は最新の自動運転装置を備え、目を瞑っても運転できるという。目的も目的地もわからないまま発進する車。またこのミッションには、「ドライバーが最新の人工知能を搭載したロボットであったなら?」という、もう1つの命題が存在していて……。
作・演出/鈴井貴之、出演/渡辺いっけい、温水洋一、田中要次、竹井亮介、大内厚雄、舟木健、藤村忠寿。2月5日~13日、東京・サンシャイン劇場、18日~20日、大阪・COOL JAPAN PARK OSAKA TTホール、25日~27日まで北海道・道新ホール。
HP/Out Of Place ARTiSt:OOPARTS (ooparts-hokkaido.net)

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