2022.03.22
原田知世「気がつけば40年……」奇跡の透明感が続く理由とは?【前編】
デビュー40周年を迎えた今も、奇跡のような美しさと透明感を保ち続け、ますます魅力的に輝いている原田知世さん。50代になって、これまで以上に日々を楽しみながらシンプルに生きているという、その暮らしぶりの秘密に迫りました。
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文/浜野雪江 写真/岸本咲子 ヘアメイク&スタイリング/藤川智美(Figue)
メモリアルイヤーの今年は、先行シングル「ヴァイオレット」(2021)に続き、3月23日にオリジナル・アルバム「fruitful days」をリリース。
穏やかで、柔らかで、なんともいえない温かさを纏う原田さんに、ご自身のこれまでとこれから、そして、俳優と歌手の両方を第一線でやり続ける理由について伺いました。
原田 長くもあり、短く感じる部分もあります。過ぎてみれば、ああ、もう40年も過ぎてしまったという感じですね。今までの仕事を振り返ると、とても充実した日々だったと思いますが、何か大きな目標を立てながら常にやってきたわけでもなく。一つひとつの仕事を大切にやっていくうちに、ご縁が生まれて、気がつけば40年、というのが、感覚的には一番あっているかもしれません。
── 10代で映画をやられた頃は、これが私の一生の仕事、みたいな気持ちはなかったのですか?
原田 もともとオーディションでたまたま受かって、最初は1本だけ映画に出演したら長崎に帰るつもりだったのが、どんどんお仕事の期間が延びていって。それで、高校を卒業する頃、学業をやめて俳優業に一本化すると決めた時に、あ、自分はこの仕事でやっていくのかなって思ったぐらいで。
でもそれは、どちらかというと、俳優業に対する覚悟というより、仕事との両立があまりにもハードで、このまま続けるのは大変だなというので一本化したところもありました。当時は、高校に通いながら仕事をして、敷いていただいたレールの上をただひたすら走るだけでした。何か考えるなんていう余裕があったんだろうか? って、思い出そうとしても、全然思い出せないんですね。なので、この女優の仕事が自分の一生の仕事、っていうほどの決意があったかというと、そこまでではないかもしれません。
原田 そうやって基盤を作っていただいて、何かひとつの仕事が終わるとまた次、というふうに面白いお仕事をいただくうちに、いつしかそのペースに慣れてきたというか……。ただ、20代になって、作品を重ねるうちに自分も成長して大人になってくると、10代のイメージのままではなく、もう少し違うこともやってみたいという気持ちが芽生えてきました。
その中で、音楽をやることで、音楽はその齢の自分を表現できる場所なのではないかなって思い始めたのが20代半ばくらい。俳優というのはオファーありきの待つ仕事で、自分のタイミングでは何ごとも進みませんが、音楽ならもう少し積極的に自分でやっていけるので。いまの私の音楽に繋がるスタートは、その辺りかなと思っています。
原田 それもなく、もともとスタートしたのですが(ニコニコ)。ただ、歌うことは好きでした。それで、20代、30代、40代と音楽を継続していくなかで、いろんなアーティストの方との、とてもいい出会いがあって。
そして、アルバムをつくることで、私のことを映画も音楽も丸ごと応援してくださるファンの方とは別に、純粋に音楽を好きになってくださる若い世代のリスナーの方との新しい出会いがありました。それが大きな力となって、ここまで音楽を続けてこられたと思いますし、同時に女優の仕事でも、いいタイミングでいい作品に会えてきました。それはとても幸せなことです。
ただ、まさかここまで長くやってこられるというのは想像できなかったですね。それと、もし音楽をやってなかったら、女優の仕事だけだったら、もうここにはいない気がしますね。
── それはどうしてですか?
原田 今はもう、音楽をやっている自分と女優の自分がふたつあることが、私の個性だと思うようになって。で、それを行き来することで、両方の仕事に対する自分の心持ちの鮮度がずっと変わらないままこられたというのがありますし、女優の仕事だけでずっと続けるって、本当に大変なことだと思います。
原田 私の場合はそれが、気持ちの鮮度が落ちない、いいところ(バランス)だったみたいですね。
── お芝居でできることと、歌でできる表現や面白さ、やりがいは違いますか?
原田 違いますね。女優の仕事は、ひとつの作品のためにたくさんの人達が集まり、一斉に作って、終わったらパッと別れる。ほぼ一期一会だと思います。一方、音楽では、私はこの10年以上、同じプロデューサーやミュージシャンの方とアルバムを作り、ツアーをやってというのを、ひとつのチームとしてやってきました。その同じ人達とやっていく作業が私にはとても合っていて、いつしかそこがホッとする場所、ホームのような場所にもなっていました。
ですので、ドラマや映画のように作品ごとにパッと集まり、終わったら散っていくのも刺激的ですが、それとは別に、心の落ち着く場所があり、そこでずっと繋げていく仕事ができたということが、表現すること自体を継続できた、とても大きな力だと思います。
原田 私は性格的に、芸能界にあまり合ってないなって思う時があって。
── 40年もやってらっしゃるのに(笑)?
原田 ええ(笑)。合ってないって言うのもヘンですけど。もちろん、共演者の方もホントに素敵な方がたくさんいらっしゃるし、一緒にいて楽しいです。ただ、そうした新しい出会いが次々に訪れますし、現場でやらなきゃいけないことも多いですから。その中で持続して友達になるというお付き合いは、少ないのかもしれません。
でも、だからといって、繋がりがなくなるわけではなく、彼らに対しても気持ちはずっと持っています。会うことはないけれど、あ、こんな作品やってらっしゃるんだなって、ふと見入ったり。そんなふうに、大切に思っていますね。
原田 アルバム1枚をフルで作詞するようになったのは、トーレ・ヨハンソンさんと一緒に作ったアルバム(「I could be free」1997)が最初です。トーレさんは曲しか書かない方ですし、詞は日本語だったので、自分で書く状況がなんとなくできていて、じゃあちょっと頑張ってみようと思って書きました。
── 詞を書くことは、ご自身にとってどんな意味を持つのでしょうか。
原田 やっぱり産みの苦しみはあって、30代はもう苦しみながら、う~ん……と唸りながら書いていました(笑)。その時期をいま振り返ると、やってよかったと思いますね。その歌詞を見るたびに、その時の自分の情景や心情がよみがえる。ある意味、日記のような、足跡にもなっています。
それと、詞を書くことは、自分を確認する作業でもあるので、さまざまなことを深く掘り下げて考えます。その時間は、人としても成長していける、とてもいい時間だったんだなぁと思うので。
でも、そこから何作も書いてきて、ここから先はもう、詞は全部自分で書くというスタイルにとらわれる必要もないところに来たのかなっていうか。歌うことに専念しても、自分自身は自分自身だなっていう気がしています。
原田 別の場所で経験したことが、何かしら自分の中にあって、それによって取り組み方が変化することがあるのも、面白いなぁと思います。どっちも自分自身なので、影響し合うのだと思います。
── 作詞家として職業的に詞を書く人もいますが、原田さんにとって詞は、わりと個人的な発露であり、言葉だったんですね。
原田 そうだと思います。 だからこそ、その時々の自分が、そこにいるんでしょうね。
後編(こちら)に続きます。
● 原田知世(はらだ・ともよ)
1983年、映画『時をかける少女』でスクリーンデビュー。近年は、映画『しあわせのパン』、『あいあい傘』、『星の子』、NHKドラマ10『紙の月』『運命に、似た恋』、CBDドラマ『三つの月』、NHK連続テレビ小説『半分、青い』、日本テレビ系日曜ドラマ『あなたの番です』、テレビ東京系『スナック キズツキ』など数々の話題作に出演。歌手としてもデビュー当時からコンスタントにアルバムを発表。1990年代は鈴木慶一、トーレ・ヨハンソンを迎えてのアルバム制作や、オール・スエディッシュ・メンバーとの国内ツアーなどで新たなリスナーを獲得。近年はプロデューサーに伊藤ゴローを迎え、充実したソロ・アルバムをコンスタントに発表。。高橋幸宏らと結成したバンドpupa(ピューパ)にも在籍。そのほか、ドキュメンタリー番組のナレーションを担当するなど幅広く活動している。
HP/O3 Harada Tomoyo Official Site
■ 「fruitful days」
デビュー40周年を記念したオリジナル・アルバム。川谷絵音(indigo la End、ゲスの極み乙女。、ジェニーハイ etc.)のサウンド・プロデュースによる先行シングル「ヴァイオレット」に加え、THE BEATNIKS(高橋幸宏&鈴木慶一)、高野 寛、伊藤ゴロー、辻村豪文(キセル)、高橋久美子、網守将平という、原田知世の音楽キャリアにおいて重要なアーティストや今回初タッグとなる豪華作家陣が新曲を提供。加えて、「守ってあげたい」と「シンシア」という往年のファンには堪らない2曲の新カヴァーも収録。新しさの中に懐かしさが同居する、現在の原田知世ならではの豊潤なサウンドに仕上がっている。アルバム・プロデュースは、15年にわたり原田知世の音楽活動のパートナーを務めるギタリスト/作曲家の伊藤ゴローが担当。初回限定版(SHM-CD+VD)4070円、通常版(SHM-CD)3300円