2023.10.21
新日本プロレス・棚橋弘至「アントニオ猪木は神様でもあり悪魔でもあり……」
公開中の映画『アントニオ猪木をさがして』に出演の棚橋弘至選手にインタビュー。「アントニオ猪木っていうすごい人物がいたことを知ってもらいたい。50年後には、『棚橋弘至をさがして』っていう映画もできると思います(笑)」
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文/肥沼和之(フリーライター・ジャーナリスト) 撮影/今井康一
世間の常識など歯牙にもかけず、壮大かつ型破りな生き様を歩み続けてきた猪木氏を、新日本プロレスのエース・棚橋弘至選手はどう見てきたのか。
弘至の「至」は、猪木さんの名前からもらった
プロレスファンだった大学生のころは、猪木さんの試合を熱中して見ていましたね。実は父親も猪木さんのファンで、弘至の「至」は(猪木さんの名前の)「寛至」からもらったのだと、後から教えられました。「導かれてるじゃん!」って。
ただプロレスラーになってから、猪木さんとの接点はそんなにありませんでした。僕が新日本プロレスに入門した1999年、猪木さんは新日本プロレスの会長で、道場にいらっしゃることはもうあまりなくて。東京ドーム大会などビッグマッチの会場に来て、「1、2、3、ダー!」をして帰られる、という感じでしたね。ごあいさつできたのも、デビューしてしばらく経ってからでした。
誰もしないことに挑戦し続けるパイオニアであることですかね。アントン・ハイセル(※1)にしても、モハメド・アリ戦にしても、採算度外視で、あと先考えずに「面白いか」「面白くないか」だけで判断していくのが、強みというかすごいところです。大借金を抱えて、それを返していくのが(新日本プロレスの)坂口征二相談役でしたけど(笑)。
猪木さんには、社会にプロレスを認めさせたいっていう、マイノリティがゆえの反骨心もずっとあったんだと思います。
強さも含めて「格好いい」
猪木さんはすごくファッショナブルだったんです。プロ野球選手やサッカー選手は、移動のときにドレスコードがあったりしますけど、それまでプロレスラーはタンクトップにトレーニングウェアみたいなイメージでした。けれど猪木さんは、移動のときはスーツでカチッと決めて、もともと手足が長くてスタイルもいいから格好よかった。だから僕も、新幹線や飛行機に乗るときはジャケットを着用することも多く、プロアスリートとしていつ見られてもいいようにしています。「いつ何時、誰に見られても格好いい」っていうね。
猪木さんに憧れてプロレスラーを目指す人がたくさんいたのは、強さも含めて格好いいからなんです。だからプロレスも大きくなってきたわけで。同じように僕が格好よければ、「棚橋みたいになりたい!」っていう人が増えて、プロレスというジャンルがこれからも続いていくんじゃないかな。今、新日本プロレスに入門してきている選手たちは、猪木さんを(リアルタイムで)見ていなくて、「棚橋を見てプロレスを好きになった」っていう選手も結構多くて。順繰りなんですね。
ただ本当のところは、「あなたに怒っています」が僕の本音だった。猪木さんは道場や会場にときどき来て、文句だけ言って、プロレスと格闘技をごちゃまぜにした試合をやれと言って。それが新日本プロレスのよくない流れの始まりだと思っていましたが、キャリア2~3年目の若手がそんなこと言ったら、業界から抹殺されるなと(笑)。
いい面も悪い面も持っているから「本物」
ビンタをされてみんな吹っ飛んでいたんですけど、僕は顔をピクリとも動かさず、ずっと猪木さんを見ていました。その後の1、2、3、ダーもやらなかったですね。(映像を見返すと)ムスッとして、イライラしているのが顔に出ていました。
ファン視点からすると猪木さんは神様ですが、プロレス業界の視点から見ると、神様なのか、天使なのか悪魔なのか。
けれど、いい面も悪い面も持っているから本物なんです。いい面しかなかったら宗教っぽくなってしまうし、悪い面だけだったらビジネスとして成り立たない。両方ある猪木さんは、本物だったんだなと。
── ほかに猪木さんとの印象的なエピソードを教えてください。
先輩には「お疲れ様です」とあいさつするのですが、猪木さんと坂口相談役だけには、「お疲れ様でございます」とみんな丁寧語であいさつしていたんです。僕が初めて猪木さんにごあいさつしたとき、「このたびデビューさせていただきました棚橋です、お疲れ様でございます」って言ったら、「疲れてねえよ」って笑いながら返されました。それを「かっけー!」って思って。
そこから十何年経った東京ドーム(での試合後のリング)で、オカダ・カズチカが僕に「棚橋さんお疲れ様です、あなたの時代は終わりです」と言ったときに、「悪いなオカダ、俺は生まれてから疲れたことがないんだ」ととっさに返したんです。記憶の深いところに、猪木さんの「疲れてねえよ」があって、つながったんじゃないかな。
プロレスラーって、痛くても「痛くない」って言うじゃないですか。虚勢を張る職業なので、「疲れてねえよ」は、最もプロレスラーらしい言葉かなって思いますよね。
── ちなみに、「猪木超え」というテーマを棚橋さん自身は持っていますか?
プロレスの世界に大きい山があったとして、そこにある道は全部、猪木さんが作ったルートなんです。獣道をかき分けて、反対側から登るしか猪木さんに追いつく方法はないのかな。僕がやっているのはその途中ですかね。
そもそも猪木さんのような、移民としてブラジルに渡って、力道山先生に拾われて、日本に戻ってプロレスラーになった……というダイナミズムは、現役レスラーには誰一人としてないんです。ほとんどが普通に義務教育を終えて、新日本の入門テストを受けてプロレスラーになるっていうね。猪木さんのようなドラマ性がないので、「猪木超え」はなかなか難しい。まぁでも、僕は猪木さんより長生きしようかなと思います。
最後までメッセージやエネルギーを発信し続けた
2020年ですかね。猪木さんが入院される前か一時退院されたときに、藤波辰爾さん、長州力さん、北沢幹之さん、藤原喜明さんなど往年のレスラーの方々とお会いされるときに僕も呼んでいただき、いろいろお話しさせてもらいました。そのときはもうだいぶ痩せられていましたね。
── 晩年の猪木さんはYouTubeで、闘病中の姿も配信されていました。
本当は格好いい猪木さんだけでいいはずなんですけど、年を重ねて病気でボロボロになっていく格好悪いところも見せられるのは、人としての強さですね。恥をかけ、馬鹿になれと、メッセージやエネルギーを発信し続けたのだろうなと。
── 2022年10月1日、猪木さんの訃報を聞いたときはどのような気持ちでしたか?
イギリス遠征に向かっている機内で知りました。おいおいおい、このタイミングかよ、と思いましたね(苦笑)。そのままイギリス大会に出場して、10カウントゴングをしたんですけど、現地のファンの方たちも立ち上がって、脱帽して黙禱してくれて。プロレスファンあったけえな、猪木さんすげえなって思いました。
── 猪木さんを追った映画『アントニオ猪木をさがして』が公開中です。棚橋さんも出演されていますが、映画を通じて伝えたいことは?
アントニオ猪木っていうすごい人物がいたから、新日本プロレスの今があるということを、一人でも多くの人に伝えたいです。猪木さんという僕が大好きな、素晴らしい人を知って、共感してもらえればうれしいですね。あ、50年後には、「棚橋弘至をさがして」っていう映画ができると思います(笑)。
それでも新日本を辞めなかった理由
1980年代は闘魂三銃士(武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋)の人気があり、1990年代には東京ドームでの興行をバンバン打てるようになったほど盛り上がっていました。僕が入門した1999年もよかったけれど、2000年代に入ってから2008年くらいまではずっと(人気も観客動員数も)下降線だった。きつかったですね。
── 他団体から移籍の打診もあったそうですが、棚橋さんが新日本から出なかったのはなぜでしょう?
新日本プロレスが好きだったからです。好きで入ったので、「ここでトップを獲るまでは辞めねえ」と思っていましたね。それに、僕がスターになれば、(観客が減っていた会場も)すぐ満員になるだろうと思っていましたし。
SNSですね。2012年に新日本プロレスがブシロードグループになってから、選手全員がTwitter(現X)を始めたのですが、僕はその前からInstagramをしていました。ほかにもファッションに特化したWEARやThreads、アメーバブログなどで発信を続けています。
直接の観客動員には繋がらなくても、何かのきっかけで新日本プロレスのポスターや中継を見たとき、棚橋っていう起点がないと(ほかの関心に)流れてしまうかもしれない。(SNSで知ってもらえれば、目を止めてもらえるかもしれないので)そこに関しては僕がパイオニアだなと。コロナもあって、SNSの大切さはより感じています。
── 当時は大会前のメディア出演など、プロモーション活動も棚橋さんがほぼひとりで引き受けていたそうです。
そうですね。僕以外に(メディア対応できるレスラーが)いなかったので。ほとんど寝る時間がなかったので、今もショートスリーパーです。僕は150歳まで生きようと思っているのですが、毎日3~4時間くらいしか寝ていないので、早死にしますよね(笑)。
ファンの喜ぶ姿を、リング上から見るとうれしい
プロレスを楽しんでくれている人の顔を、リング上から見るとうれしくなるんです。僕は「人の喜びを自分の喜びに」という言葉が好きなのですが、例えばテストで100点を取るともちろんうれしい。でも、家に帰って、母ちゃんに「100点取ったよ」と言ったら、すげぇ喜んでくれるじゃないですか。その姿を見るのが、自分のことよりもうれしいんです。
だから試合をして、ファンの喜びを自分の喜びにしたら、「永久電機」ですよ。猪木さんが(アントン・ハイセルで失敗して)作れなかった永久機関を実はもう作っている。猪木超えを果たせたのかもしれません(笑)。
新日本プロレスのレスラーは海外遠征に行って、様々な経験して試合運びを学んでくることが多いんです。僕は海外遠征を経験していないのですが、日本にいながらブーイングを受けられるのはチャンスだなと、修行の場にしていました。観客をあおると、もっとブーイングが来て、対戦相手に声援が行く。結果、試合が盛り上がるんですね。
『泣いた赤鬼』っていう物語があります。人間と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼があえてヒールを買って出て、赤鬼をいいやつにするんです。僕は青鬼の行動にカタルシスを感じます。自己犠牲の精神というか、あえて悪役を買って出る生き方が好きなんでしょうね。
試合に関しては大差ないと思いますね。猪木さんが持っている殺気などはとても真似できないですけど、体を張ってファンの人に楽しんでもらい、勝ってチャンピオンを目指す、っていう根源的なところは変わらないのかなと。
ただ古いファンの方たちから、「棚橋はストロングスタイルらしくない」と言われたことがありました。でも、「じゃあストロングスタイルって何?」と聞くと、明確に答えられる人はいないんです。2012年に猪木さんと対談したとき、「ストロングスタイルって何ですか?」って聞いたら、「そんなの知らねえよ、誰かが勝手につけたんだよ」って(笑)。
そういうもんですよね、って納得しました。だから僕はストロングスタイルを離れたんです。新日本プロレスでストロングスタイル以外のことを全部やる、というほうがやりがいもありますしね。
コロナに打ちのめされた世間に、元気を届ける
プロレスは、技がすごいとか、この選手が好きとか、そういう基準で見てもらっても全然いいんです。けれど、やられても諦めずに立ち上がり、頑張っている選手の姿からエネルギーをもらえるところが、世間とシンクロしているんじゃないかなと。
力道山先生は戦後の疲弊しきった日本を盛り上げたし、猪木さんや馬場さんもその延長線上にあった。今も、コロナに打ちのめされた世間に、プロレスは元気を届けている。実は、陰で大事な役割を果たしているのが、プロレスなんじゃないかなって気がします。
── 逆に、プロレス界の課題や、伝えたい提言はありますか?
いや、もう素晴らしいですよ。オカダ(・カズチカ)は背も高くて格好いいし、内藤(哲也)もいい。後輩レスラーもたくさん育っているんだけども、アントニオ猪木、藤波辰爾、長州力など昭和のレスラーと比べると、みんなクセがないんです。クセって実は大事で、心に残るんですね。だからモノマネもされるじゃないですか。でも、クセってナチュラルボーンなので、後から付けようと思ってもできない。
しかも本人は、自分にクセがあることに気づいていないんです。武藤(敬司)さんも、自分を普通だと思っているけど、大クセ者ですからね。(元新日本プロレスの)中邑真輔なんかもクセの塊で。自分で気づいてないから面倒くさいんですけど、スターは周りが手を焼くものなんですよ。何かに突出しているから、何かが欠けている。
でも僕は全部できちゃうから、一番クセがないかな。周りからは「結構ありますよ」って言われますけど(笑)。
── 棚橋さんがこれから選手として目指すことを教えてください。
IWGPヘビー級王座のベルトは何度も巻いたんですけど、「IWGP世界ヘビー級王座」に変わってからはまだなので、(チャンピオン戦線に)食い込みたい思いがあります。身体を仕上げて、結果を出して、ビッグマッチでIWGP世界ヘビー級王座を獲るのが今の目標です。一回獲ったら引退します、もう思い残すことはないので。
── 本当にですか!?
はい。
── 引退をした後は?
リング外の仕事も面白いし、興味があるので、いずれは新日本プロレスの社長になっているかもしれないですね。(新団体設立などは)失敗しか見ていないからないです(笑)。生涯、新日本プロレスで行こうかなと思います。