2024.01.14
いつも日産車が隣にいた僕のクルマ人生
筆者にとって、プライベートでも、仕事でも、とりわけ深い関係を築いてきたのが日産のクルマだった。創立90周年を迎えた日産車との個人的な思い出の数々を振り返ります。
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第224回
創立90周年迎えた日産の思い出
1955年は僕が15歳。当時は16歳で小型4輪免許証がとれた。エンジン排気量が2ℓ以下の小型車の免許証だ。
僕は16歳の誕生日を過ぎてすぐ免許証をとった。鮫洲試験場で一発合格。最速で免許証を手に入れたことになる。
そして、最初に運転したのが、1955年のダットサン110型。エンジンはサイドバルブの4気筒860cc/25馬力。これは、わが家が初めて手に入れた自家用車でもある。
上記のエンジンスペックでも分かる通り、性能的には下限ギリギリといったレベル。買ってすぐ、兄と二人で箱根へドライブに行ったが、山登りはきつかった。
遅い上にすぐオーバーヒート気味になる。頂上とのちょうど中間地点辺りに小さな滝が流れ落ちる水場があったが、そこで一休み。同時に、冷たい水をラジェーターに補給して、なんとか頂上まで辿り着いた。
1957年には、1000ccのOHVエンジン/34馬力を搭載した210型、通称ダットサン1000が誕生。わが家もすぐ乗り換えた。このエンジンは英オースチン系の技術を採り入れたもので、パワーだけではなく回転感も良かった。
1959年には310系ブルーバードがデビュー。ルックスも、走りも、乗り心地も(前輪には独立懸架を採用)、、すべてが大きく進化。わが家3台目の自家用になった。
その後も、わが家のクルマは日産車が続き、1961年にはセドリック カスタム1900、1965年にはプレジデントへとアップグレードしていった。
1955年のダットサン110 型から10年後のプレジデントまで、日産車5台を乗り継いだことになるが、、振り返ってみると、この10年間の日産車=日本車の変化と進化はすごいものだったと改めて思う。
ここまでは「わが家と日産車」の話だが、ここからは、「僕と日産車」の話に移る。
僕が自動車ジャーナリストとしての歩みを始めたのは1964年。「ドライバー」誌の編集者から始まった。
この話は以前にも書いたが、、当時、僕は「チーム8」という小さなクラブのまとめ役をやっていた。そしてTMSC(トヨタ モーター スポーツ クラブ)と親しく、ジムカーナを共催するといったこともやっていた。
そんな僕を日産は「トヨタの回し者」と捉え、日産広報車の試乗は許可されなかった。今考えると笑ってしまう話だが、まだ、そんな「石器時代!?」だったのだ。
ところが、1965年、シルビアの登場で石器時代は終わった。ドライバー誌の編集長が日産に直談判。「シルビアのテストを岡崎にやらせてくれ。その結果と記事内容で、トヨタの回し者かどうかを判断してくれ」と。
当時は「ゼロヨン」が、クルマの性能を示す大きなポイントになっていたが、僕は日産の公式タイム17.4秒を0.7秒上回る16.7秒を叩き出した。
シルビアはルックスも最高だった。加えて、走りも良かった。となれば、記事内容は当然「◎!!」になる。、、で、その日を境に、僕はめでたく「日産の味方!」へとアップグレードしたのだ。
そして1970年には、僕の愛車として、ピニンファリーナ改の最後期型セドリック スペシャルシックスを手に入れた。
純白の特別なボディカラーの塗装も日産が引き受けてくれた。スペシャルなセドリックは、銀座でも赤坂でも多くの目を惹きつけた。貴重な思い出の1台になっている。
日産といえば、「GT-R」を避けては通れないが、僕はここでも「ゼロヨン」で貢献。初代GT-Rの公式タイムは16.0秒だったが、僕は15.5秒まで縮めた。日産も、櫻井真一郎(日産の技術者。GT-Rの生みの親と称されている)さんも、すごく喜んでくれた。
GT-Rは高価で手が出なかった。なのでハードトップが出た時にノーマルモデルを買い、あれこれチューンナップして乗った。中でも、いちばんの自慢は、神戸製鋼製のマグホイール(1本7万円)を手に入れたことだった。
日産とは開発関係でも多くの貴重な思い出がある。いちばん初めは6代目の910型ブルーバードだが、もっとも盛り上がったのは、R32型GT-Rを中心にした「901活動」。
GT-R開発への関係はR35型まで続いた。アウトバーンでは300km/hに挑戦し、ニュルブルクリンクを攻め、そして、最後はLA~サンフランシスコの優雅な旅で締め括った。
フェアレディZにも楽しい思い出がいろいろある。なかでも最高の思い出は「Z432レース仕様車」。
1960年代の終わり頃から70年代の始め頃にかけて、僕は日産レーシングスクールに通っていた。先生は高橋国光さん、北野元さん、黒澤元治さんといった超豪華メンバー。
加えて、なんと、、僕専用のレース仕様Z432を用意してくれたのだ。こんなに贅沢な、そしてハッピーな贈り物など滅多にあるものではない。宝物級の思い出だ。
Zといえば、カルロス ゴーン就任後の「日産リバイバルプラン」で象徴の一つになったZ33型、、2002年デビューの5代目Zにもいろいろな思い出がある。
LAを中心にしたカリフォルニアでの開発テストは、楽しい思い出ばかり浮かんでくる。贅沢なビバリーヒルズの邸宅街に、Z33がとてもよく馴染んだことには驚いたものだ。
実用車系ではサニーの思い出が多い。1966年デビューの初代サニーは、ライバルのカローラに「隣のクルマが小さく見えまーす!」と言わせはしたが、僕はコンパクトで軽くて敏捷なサニーが大好きだった。
そんなサニーの実力を多くに知ってもらいたいとの思いから、デビュー直後、ドライバー誌で「サニー、日本一周ノンストップ」なる企画を立てて実行した。
1970年代後半辺りから、車両開発に当たって、「世界の道を知る」ことの重要さ、そしてテストコースのあり方を大いに議論した。
当時のテストコースは定常テストを中心に設計されており、「生きたテストコース」ではなかった。僕は一般道に近い生きたテストコースが必要だと主張。熱い議論を重ねた。
その後、海外の道と路面を調査するスタッフも任命され、僕が走った「記憶に残る道と路面」の多くも調査対象になった。
芦ノ湖スカイラインを早朝に占有してのテストもその一環として行われた。僕もドライバーの一員として参加したが、当時のテストコースではまったく得られない、貴重なデータが多く得られた。
インフィニティ ブランドの立ち上げにも関わった。特にトップモデルのQ45には、早い時期から開発陣と多くの時間を共にした。
個性的に過ぎたデザインには賛成できなかったが、後発のプレミアムブランドとしては、大胆なアプローチが必要だということは理解できた。
カルロス ゴーン体制になった時、新しい日産はどうあるべきか、新しい日産はどんなクルマを創るべきか、、各部門のトップと夜を徹して議論したことも、貴重な思い出だ。
創立90周年を迎え、次は100周年に向かう。
いろいろな意味で大きな転機 / 岐路に立っている自動車業界だが、今後、日産がどんな歩みを進めるのか、、想像、あるいは妄想は果てしなく広がっていく。
創立100周年が、明るい未来を明快に照らし出すような、そして多くの日産ファンが、心からの拍手と賛辞を贈る、、そんな100周年になってほしい。心からそう願っている。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。