2024.04.07
地図しかなかった時代のドライブ。その楽しさと苦労とは?
今ではナビのおかげで誰もが初めての場所でも不安なくドライブできる。しかし地図に頼るしかない時代には色んなトラブルが起こった。ましてや海外となると……。67年の運転歴中、6割ほどを地図で過ごしてきた筆者が語る地図ドライブの思い出あれこれ。
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第230回
地図時代の海外ドライブを振り返る
僕が初めて海外でクルマを走らせたのは1964年。場所はLA。
空港で友人にピックアップされ、初めてフリーウェイ101(世界一交通量の多い道路かもしれない)に入った時は驚いた。片側4~6車線をビッシリ埋める大河の如きクルマの流れには圧倒された。
LAのフリーウェイは、映画やTVドラマ、あるいは雑誌などでいろいろ見ていた。「すごいなぁ!!」とは思っていた。でも、現実は想像の何倍もすごかった。
友人が予約したモーテルで降ろしてもらい、そこからは独りに。場末の安いモーテルだが、予想通りのイメージだった。
「アメリカに来たんだ!」といううれしさがさらに強くなった。安っぽいシャワールームでシャワーを浴びるのさえワクワクした。
ショートパンツとTシャツでベッドに。そしてLAの地図を広げ、まずはモーテルの位置にマークを入れた。次いで、友人から手渡されたレンタカーショップをチェック。
その場所はモーテルの直近で歩いてもすぐ。友人の気配りがうれしかった。
レンタカーを借りての最初の目的地はサンタモニカだが、そこに至る道順もチェック。フリーウェイも一般道も道順は簡単。すぐ頭に入れられた。でも、念の為にメモも作った。
LAの道路はシンプルでわかりやすい。下手に近道などしようとせず、大きな通りを単純に組み合わせれば、労せず目的地に着ける。
地図は見易いようにして助手席に置いたが、メモだけで十分だった。いや、メモも頭に入っていたので、初めからスイスイ走れた。
当時のLAはとてもマナーがよかった。ほとんどのクルマがルール通りに淡々と走っていた。なので、怖さを感じることもなかった。
初めての右側通行にもすぐ慣れた。その上、道路はシンプルだし、道路の案内板がとてもよくできているので、落ち着いて走れた。
フリーウェイも問題なし。流入の時だけはちょっと緊張した。でも、難なく流れに入れたし、流れに乗れた。前夜感じた驚きと緊張感は、嘘のように消えてしまった。
目的地のモーテルは、サンタモニカ ピアの一角にあるのですぐわかった。
日本で走るより楽で快適だった。生まれて初めての海外ドライブは、天国のようだった。
LAの次はNYへ。LAが快適で長居しすぎたので、NY滞在は短くせざるを得なかった。なので、レンタカーも借りず、地下鉄とタクシーで移動した。
初の海外旅行で運転したのは、LAとロンドンを中心にしたイギリスだけ。ロンドンでの足はバンデンプラ プリンセス。贅沢をした。
ロンドンも苦労せず走れた。LAのようにスイスイとまではいかないものの、地図をしっかり予習、メモを作り、道路標識確認を怠らなければ、大ミスをやらかすことはなかった。
ロンドンもマナーはよかった。なので、少しウロウロしているような時でも、追い立てられ急かされるようなことはなかった。これも大いに助けになった。
ここで得た自信が後の海外ドライブに役立ったことは言うまでもない。
若い頃はLAの虜になり頻繁に通った。3回目辺りからは、ほとんど地図も要らなくなった。サンタモニカをベースに、コーストハイウェイ沿いのビーチタウンを、そしてLAのあちこちを走り回ったが、まるで「土地者のように」スイスイ走った。
1980年代からは海外メーカーの試乗会が増え、重要な仕事になった。これは基本的に2人1組で走るので楽。助手席の人が地図を見ればいいので、運転者は運転に専念できる。
でも、中には地図見が不得意な人もいるし、道路標識を見逃す人もいる。コックリしてしまう人と組む不運だってある。そんな時は仕方がないが、、一度ドジると、以後は姿勢を正すので、まぁ、なんとかなる。
メーカーの試乗会では、地図の他に、距離とコースをコマ図にしたルートブックが手渡されるのが基本だが、これは助かる。
そんな中、モロッコとエジプトで行われた試乗会のルートブックは不完全だった。だが、この時は共に、メーカーの先導車に付いて走るルールだったので問題はなかった。
メーカーも、「ルートブックはアフリカを走った記念品」くらいに思っていたのだろう。
ルートブックがいくらよくできていても、それをキチンとチェックしないような相棒と組むと酷いことになる。親しくしていた先輩と同輩にそんな人がいた。
同い年の同輩は天衣無縫というか、楽しい奴だった。家族でお互いの家にも行き来する親しい付き合いをしていた。
そんな彼が助手席に座ると、「さぁ、岡ちゃん、行こう‼」と威勢のいい掛け声がかかる。そこまではいいのだが、それで終わり。ルートブックを手に取ることはない。
要は「前のクルマに付いていけばいい」ということなのだ。空いた郊外路ならそれもいいが、道が入り組み、混雑し、信号も多い市街地などでは、難しいし危険でもある。
もう1人の先輩は、尊敬する方であり、いろいろ教えをいただいた方でもある。いつも背筋は伸びており、きちっとしている。
ところが、そんな先輩なのに、僕と組むとなぜか、「岡崎さん、前に付いていきましょう」とルートブックを見ようとしない。
ある時、前のクルマがかなり飛ばしているのを指して、「岡崎さん、あれは飛ばしすぎです。あそこまで無茶してはいけません」と。
そこで僕も「そうですね。では、スピードを落としますから、ルートガイドの方、よろしくお願いします」と返した。
、、と一瞬の間を置いて、先輩は、「岡崎さん、よくないことではありますが、今日のところは目を瞑りましょう、、」との返事が。
ロンドン~シドニー 3万キロ ラリーを走った時も、ルートブックはあった。ヨーロッパ、中東を走り抜けてシンガポールに至るまでは、ほぼこのルートブックに頼って走れた。
だが、オーストラリア西岸のパースから東岸のシドニーまで、、砂漠エリアを中心にW字のように大陸を走り抜けるセクションで、ルートブックはほとんど役に立たなかった。
地図とコンパス、たまに出会うガソリンスタンドや民家に立ち寄って、現在地の確認と行く先の方向の確認が頼りだった。
バハ1000はルートブックもないので、事前にバハを1週間ほど走り、自分のためのルートブックを作った。大変な作業だったが、一生の思い出にもなった。
世界中を走り回ってきたが、いちばん迷ったのが、オーストラリアの西半球砂漠、バハ カリフォルニア、インド辺りだろうか。
カーナビのない頃の海外ドライブの難易は、道路環境の良し悪しで大きく変わった。でも、難しさを克服し、目的地に着いた時のうれしさと満足感で、苦労は倍返しされた。
僕は67年の運転歴中、6割ほどを地図と、4割ほどをナビと共にしてきた。今から地図に戻るのは不可能だが、地図と共に過ごした楽しく大切な思い出は無数にある。
地図は、ある意味、旅に厚みをもたらしてくれる。楽しい妄想を膨らませてもくれる。地図時代を経験できたことはハッピーだった。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。