2024.09.08
68年続いた幸せな運転生活をどう終わらせようか?
クルマ好きだった青年が自動車ジャーナリストになり、星の数ほどの試乗をこなし、気づけば68年、200万キロに達する運転生活を無事故で送ってきました。「運転できるのはあと数年だろう」という筆者が振り返る、充実したカーライフの思い出とは?
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文/岡崎宏司(自動車ジャーナリスト) イラスト/溝呂木 陽
岡崎宏司の「クルマ備忘録」連載 第241回
68年間/200万キロを無事故で走り切った!
僕が免許証を取ったのは16歳になってすぐの1956年4月。家内より2ヶ月前のこと。以来現在までの68年間運転を続けている。
家内と同じ年月を運転してきたわけだが、運転距離ははるかに違う。僕のそれは、たぶん200万キロほどに達しているだろう。
オートバイに夢中になった3年間を含めて、僕の運転距離は半端ではなかった。
橋の袂で集まるということは、「どこか走りに行こうよ!」のサインで、たいてい、行き先は江ノ島だった。
週末は箱根か日光が多かった。コアな仲間は8人だったが、みんな上手くて速かった。多くのバイク グループがあったが、僕たちは「ちょっと知られた!」「一目置かれた!」グループだった。みんな速かったが、誰も事故は起こさなかった。
僕たちはいくら飛ばしても、暗黙のルールとして、「守るべきことは守る」という基本を徹底していたから、事故を起こさずに済んだのだろう。
とはいっても、みんなで話し合ったわけでもないし、ルールを作っていたわけでもない。でも、なぜか、いつの間にか「暗黙のルール」ができていて、誰もがそれを守った。
カッコつけた言い方かもしれないが、われわれは、走りを楽しみながらも、常に、基本を、ルールを、安全を、、意識していたのだと思う。いい仲間に恵まれたということだ。
1962年からは鈴鹿サーキット通いが始まった。一時期はほとんど毎週、土曜の午後に東京を出て国道1号線を走り(東名高速の全線開通は1969年)鈴鹿サーキットに通った。
使えるお金のほとんどはクルマと鈴鹿通いに使い、土日休日のほとんどは鈴鹿通いに費やした。そんな僕に、家内は文句一つ言わず、嫌な顔一つせずについてきてくれた。
そんな流れの行き着き先として、当時は「なんですかそれ⁉」といわれた「自動車ジャーナリスト」という職業を僕は選んだのだが、それも受け容れてくれた。
自動車ジャーナリスト業の開始は1964年。自動車雑誌「ドライバー」編集部に入った。入社試験代わりの編集長との面談は1時間ほどで終わり、すぐ入社は決まった。
そして、84歳になった今に至るまで、答えは変わらない。強いて加えるならば、追突された事故が2件ある。箱根で1件、東関東自動車道で1件だ。ともに、避けようのない、いきなりの追突だった。
クルマはそれなりのダメージは受けたが、身体的には「軽い鞭打ち症」程度のダメージで済んだ。それに、相手もきちっとした人だったので、事故後の問題もまったくなかった。
上記のように追突された事故は2件あるが、僕が原因 / 加害者になった事故は1件もない。68年間、文字通り世界中をフルに走り回ってきたわけだが、無事故歴は続いている。
ドライバー編集部では、新車評価だけではなく、中古車評価の記事も担当した。なので、試乗車の台数も非常に多かった。となれば、当然、運転距離も大きく伸びる。
ドライバー誌に3年半ほど在籍した後フリーランスになったが、仕事はさらに増え、試乗台数も増えた。
試乗の多くは箱根だったが、軽井沢にも、那須にも、日光にもよく行った。スポーツ系車両では鈴鹿や筑波サーキットもよく走った。
しっかり距離を走り込み、当時はまだ少なかった、限界領域の性能/動質についても、できるだけ深く丁寧に記事を書いた。そのために、タイヤの勉強も必死にやった。
こうした仕事はメーカーにも注目されるようになり、メーカーからの仕事の依頼も入るようになった。
初めて声をかけてくれたのはトヨタ。1977年、新型車開発テストの依頼が来たのだ。それまで外部に門戸を開くことに厳しかった日本の各メーカーだったが、このトヨタの件以来、一気に状況は変わった。
テストには多くの人が関わるので、何らかの形で、他メーカーに漏れ伝わったということなのだろう。
メーカーのテストは、初めは開発中の新型車に限られ、社内のテストコースで行われるのが常だったが、その内、発表後のモデルの一般道での改良テストも加わるようになった。
そしてさらには、海外でのテストも依頼されるようになり、運転距離は飛躍的に伸びた。
海外テストはアウトバーンのあるドイツが多かったが、欧州のあちこちを走るロングランも少なくなかった。アメリカも多かった。
テスト以外でも、メーカーと雑誌のタイアップ企画で、世界のあちこちを走る企画が次々舞い込んできた。
ある国の事情で通過が困難になり、計画が中止になったのは非常に残念だったが、世界10万キロ ノンストップ(海を渡るような時以外はノンストップでエンジンは封印)走行のメインドライバーにも指名された。
80年代半ば辺りからは、海外メーカーの国際試乗会も増え、僕個人へのテスト依頼も増え続けた。とくにドイツ系が多く、アウトバーンは嫌というほど走った。日本仕様車のチューニング、最終仕上げにも多く関わった。
欧州のメーカーだが、次期型モデルを現行モデルのボディで偽装した試験車を1週間預けられたことがある。
好きなところを好きなように走って、問題点を洗い出してほしいといった、いささか破天荒な依頼だったが、面白いと思い受けた。
歳を重ねるとともに、車両テストだけでなく、デザイン評価やマーケティング / 広告関係の仕事の依頼も増えていった。
走っているか原稿を書いているか、世界のあちこちへ移動しているか、、、そんな日々が何十年も続いたが、そのペースを落とし始めたのは75歳辺りから。
開発テストの依頼は78歳まで続いたが、そこで自ら区切りをつけた。ちなみに、最後のテストは80歳の時。「どうしてもお願いしたい!」ということで受けた。
それほど走ったわけだが、幸いにも事故はない。コツンとやったり、擦ったり程度はいくつかあるが、クルマをダメにしたり、人に傷を負わせるような事故は皆無だ。
常にそれなりの心構えを持って走った結果だという自負はある。でも、、「どうにも避けられない不運な事故」もある。なのに、そんな不運に一度も遭遇せずに済んだのは「ツキも味方してくれた」としか言いようがない。
だが、いづれも僕が起こした事故ではない。昔の試作車はよく壊れた。とくに初期試作車のテストにはけっこうリスクがあった。
「あわや!!!」レベルのトラブルは何度もあるが、なんとか最低限のダメージで回避できた。試作車をひどく壊すと開発が遅れるが、これはメーカーにとっては重大問題だ。
そんなことで、メーカーから謝罪と謝意をいただいたことも何度かある。
一般道での事故はなく、テストコースでのリスクにもなんとか対応できてきたことは、ほんとうに幸いだった。幸運に恵まれたことも当然あるのだが、誇りにも思っている。
なかでも、自分自身を含めて、人に傷を、ダメージを与えたことが一度もないのが、いちばんうれしい。
僕のクルマのダッシュボード上の目立つところには、金色の小さな星型シールが3枚貼ってある。「注意を怠らず、安全に運転しよう!」という意味のサインだ。
ふとした思いつきで貼ったこのサインが、しっかり役に立ってくれることを願っている。
● 岡崎宏司 / 自動車ジャーナリスト
1940年生まれ。本名は「ひろし」だが、ペンネームは「こうじ」と読む。青山学院大学を経て、日本大学芸術学部放送学科卒業。放送作家を志すも好きな自動車から離れられず自動車ジャーナリストに。メーカーの車両開発やデザイン等のアドバイザー、省庁の各種委員を歴任。自動車ジャーナリストの岡崎五朗氏は長男。