2022.07.09
井浦 新「僕が常に自分をアップデイトするために考えていることは」
映画やドラマなど、数多くの人気作に出演し、いつも印象に残る役柄を演じて高い評価を得る俳優、井浦新さん。今回は、話題の映画『こちらあみ子』に悩み多き父親役として出演中です。共演した娘役の大沢一菜さんとの触れ合いを通じて、大人の人生に大切なものを再確認したと言います。
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文/浜野雪江 写真/内田裕介(Ucci) スタイリング/上野健太郎(KEN OFFICE) ヘアメイク/HITOME NEMOTO
近年は、「なつぞら」(2019)でNHKの朝ドラにも初出演するなど、より精力的に表現の場を広げる彼が、芥川賞受賞作家・今村夏子のデビュー作を映画化した『こちらあみ子』(公開中)に出演。周りの子どもとはどこか違う少女・あみ子を、戸惑いながらも見守る父・哲郎役を演じています。
あみ子は人の気持ちを汲むことが苦手な女の子。感じたままを口に出し、思うがままに行動し、しばしば周囲の人々を困惑させたり傷つけてしまいます。しかしあみ子には、その澄んだ瞳にしか見えないものがあり、映画はそれを鮮やかに描き出します。
一見、LEON読者には縁遠い作品に思われるかもしれません。しかし、井浦さんはこの映画を、様々な知恵がついた大人が失ってしまった“大切なもの”を、もう一度取り戻すきっかけになる作品だと言います。
ともに映画の世界に突然放り込まれてデビューした僕と尾野真千子さん
井浦 僕は初期衝動というのをすごく大事にしてるんですけど、今回はそれが3つあって。まず、森井(勇佑)監督の初監督作品であることがとても大きいです。これまで、森井監督が助監督を務められた作品で何作かご一緒するなかで、僕の芝居を熟知している監督が、ご自分の初監督作品で僕を必要としてくださったわけですから、これはもう絶対に応えたい。この映画に込める監督の並々ならぬ思いを自分も一緒に感じながら、その作品作りにどうしても立ち合いたいという思いがありました。
そして、もう一つの魅力は、尾野真千子さんとの共演です。尾野さんと僕はデビュー時期が近いうえに、デビューの仕方がちょっと似ていて、ずっと気になっていた方。尾野さんは、河瀨直美監督に突然、「あんた、やんなさい」と言われて、映画の世界に放り込まれた人で。僕も、俳優志望でもない男が、是枝監督に突然、映画の世界にポンと放り込まれたという経緯があります。「いつかは共演できるだろう」と思いながら、23年間、一度もお会いしたことのなかった尾野さんと夫婦役ができるというのは、あみ子に対するものとはまた別のワクワク感がありました。
あの頃も今も、僕もあなたも、みんな“あみ子”なんです
井浦 頭の中に染み込んだセリフや言葉は、撮影前の時点ではまだ、完全に血肉にはなっていませんでした。でもそれが、あみ子と出会って血が巡り、あみ子とのやりとりを通してついた筋肉で、勝手に一気に溢れ出した。現場で僕は何を見てたかというと、あみ子しか見ていなくて。目の前で(あみ子役の大沢)一菜(かな)が演じるあみ子のことを思えば思うほど、哲郎ができていく。この作品に関しては、そういうアプローチだったように思います。
同時に、自分の中のあみ子的要素を思い、僕が“あみ子”だったあの頃に、当たり前だと思ってしてきた言動を、父や母はどんなふうに受け止めていたかというのを、演じながら思い出していきました。かつて“あみ子”
だった時代があるのは僕だけではなく、みんなも同じ。誰の中にも“あみ子”が必ずどこかにいるはずです。つまり、僕もあみ子だし、あなたもあみ子。みんな“あみ子”なんです。
井浦 家に“猛獣”が一人いるわけで、大変なことも色々あるでしょうから。哲郎は時として、分からないがゆえに娘を突き放してるようにも見えるし、中学生の息子に対しても、一見無関心のようにも見えます。でも、常に子どもたちや家族を愛することは諦めてない父親としていたいなと思いました。
ただ、哲郎もあみ子のお父さん(=ルーツ)ですから、どこかが人とは違っていたり、何かが豊かだけど、何かが欠落してたりという部分をやっぱり持ってるんです。でも、あみ子の後ろに哲郎がくっきり見えすぎると、あみ子の輪郭が哲郎によって明確になってしまうのが僕はすごく嫌で。それは、あみ子の無限の可能性やその計り知れなさを、見る人たちが感じ、自分と置き換えたりする際の邪魔になりますから。
だから、哲郎を余白だらけの人物像にして、哲郎の不器用さや父親としての苦悩、壊れてしまった妻と一緒にいる夫としての立ち方も含めて、見る人たちに、哲郎の心情を“いかにはっきり見せないようにするか”が重要でした。
羨ましくもあり懐かしくもあった一菜の野性的な表現
井浦 子役さんの中には、あみ子役をお芝居でできる子もいるかもしれないけれど、そうじゃない一菜を、監督は選んだんです。そもそも野性というのは、作ってできるものじゃないかもしれない。だから監督は、一菜の中にある野性を、あみ子の野性と重ね合わせて、もっと自由に、何にもとらわれず、一菜がこの作品の中で存在していける環境を現場でずっと作っていました。
一菜の何にもとらわれてない野性的な表現というのは、羨ましくもあり懐かしくもあり。一菜が演じるあみ子と撮影していた日々は、僕にとっても、もっとも楽しい時間でした。
── 心待ちにしていた尾野さんとの共演はいかがでしたか?
井浦 この作品ではお互い、二十数年間、積み上げてきた経験を捨てていく作業の方が大事だったと思うんです。もしも僕らが、積み上げてきたものをそのまま生かしたら、あみ子とのバランスが微妙にくずれて、夫婦の見え方が浮いてしまったと思う。だから、お互いにそれを、“ちゃんと生かしながらも出さない”というやり方をしました。
そういう話を尾野さんとしたわけではないんですけど、中心にあみ子がいて、あみ子と同じ時間軸で生きるうえでは、おのずと二人ともキャッチしているものが同じだったんです。だから、尾野さんとのお芝居はとても刺激的でした。
何にもとらわれない純粋無垢なものは、一番きらめいていて美しい
井浦 人は、子ども時代はみんな“あみ子”でも、成長し、集団や社会に属するうちに、様々な知恵がついたり固定概念が生まれて、野性が削ぎ落とされ、人間社会の中で生きる人間になっていきます。それを拒んでずっと“あみ子”を貫いていたら、この社会では苦しいこともたくさんあるかもしれない。それでもやはり、何にもとらわれない純粋無垢なものは、一番きらめいていて美しいなぁと思うんです。
僕自身、この映画を作りながら、生きることに対しても、表現に対しても、純粋無垢であることは間違いじゃないんだと、強く感じることができました。そうやって、背中を押してくれる作品でした。
── いくつになっても、自分なりの野性を失わないことも大切だということでしょうか。井浦さんは、ご自身の中の野性をどういう時に感じますか。
井浦 食べたい時に食べて、眠たい時に寝て、表現したい時に表現するような、そんな暮らしをした時です(笑)。それは頭でガチガチに構成されたものじゃなく、直感的で感覚的な野性です。
それをお芝居の分野で考えると、僕にも一菜のように「デビュー初」という作品(『ワンダフルライフ』)があって。その時に自分がやった表現を、当時“表現”という言葉で表せるとは理解できていなかったけれども、20年以上経つと、やっぱりデビュー作での表現が、自分の最大のライバルであり目標になるんです。禅問答みたいな言い方になるけれど、それは何にもとらわれていなくて、“何もできないのに、なんでもできてしまう”という。無垢だからこそ、それが可能だったんです。
自分自身が自分の表現に飽きないためにもアップデイトが必要
井浦 ええ。その後、キャリアを積む中で、一歩でも成長したくてがむしゃらに学んだことは、プラスにもなったけれど、そのぶん、表現の優先順位としては、本来の自分そのものの無垢さが薄れていってしまうというか。上手くなりたいけれど、それによって変わっていってしまう自分への葛藤がありました。ただ一方で、デビュー当時のままの自分で演じ続けることも、きっと耐えられなかったと思うんです。チャレンジし続けていないと、自分が面白くなくなってしまうので。実際、10年ぐらいは耐えられたけれど、そこから先は、「自分が進化していく面白さを突き詰めたい」と思うようになりました。
だから今は、自分自身が自分の表現に飽きないためにも、もともとの自分に、今の最新の自分を混ぜ合わせてアップデイトしていくことを常に望んでいます。そうすることで、毎回新しい自分になれるんです。
── 哲郎役で、今まで積み上げてきたものを“ちゃんと生かしながらも出さない”というやり方も、まさにそれでしょうか。
井浦 そうですね。積み重ねたものを消去することは、実は僕の中ではたやすいことで。逆に、今まで演じてきた役や感じてきたものを消去せずに、パンや粘土を丹念にこねるように、ちゃんと血肉にしていったうえで何が生まれてくるかを探る方が、作業としてはものすごく難しいんです。
どうせ表現にトライするなら、難しいことにトライしたいし、自分がやってきたものをこねくり回してぎゅうっとしぼって出てきた一滴の滴みたいなものを最新の栄養にして、常に表現をアップデイトしていく。それが今の自分だと思っています。
井浦 いろいろありますけど、やはり一番は、自分の好きなことをやっている人は、年齢を問わず、同性として素直に“素敵だな”と思います。それは仕事に限らず、趣味でもなんでもそう。趣味が多くて、それを楽しむ姿はキラキラしていて素敵ですし、特に趣味がなくても、その中で自分らしく生きてる姿がカッコいいと思える人もたくさんいます。何かが多い・少ないとかは関係なく、とにかく自分らしく生きてる人を見ると“カッコよく生きてるな”と感じます。
井浦 新(いうら・あらた)
1974年、東京都生まれ。’98年に是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』で主演デビュー。以降、映画、ドラマ、ナレーションなど幅広く活動。主な映画出演作品に『ピンポン』(2002)、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)、『空気人形』(2009)。『かぞくのくに』(2012)、『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』(2013)、『さよなら渓谷』(2013)、『悼む人』(2015)、『白河夜船』(2015)、『光』(2017)、『二十六夜待ち』(2017)、『ニワトリ★スター』(2018)『止められるか、俺たちを』(2018)、『嵐電』(2019)、『朝が来る』(2020)、『かそけきサンカヨウ』(2021)、『ニワトリ☆フェニックス』(2022)など。また、自身のアパレルブランドELNEST CREATIVE ACTIVITYのディレクターを務めている。
『こちらあみ子』
「むらさきのスカートの女」で令和初の芥川賞作家となった今村夏子が太宰治賞と三島由紀夫賞をW受賞したデビュー作「あたらしい娘」(のちに「こちらあみ子」に改題)を実写映画化。
広島を舞台に、少々風変わりだが純粋な小学5年生あみ子が、そのあまりに純粋な行動で、家族や同級生など周囲の人たちを否応なく変えていく過程を鮮やかに描き出す。
主人公のあみ子を演じるのは、応募総数330名のオーディションの中から見いだされた新星・大沢一菜(おおさわ・かな)。演技未経験ながら圧倒的な存在感で“あみ子の見ている世界”を体現し、現場の自由な空気の中でキャラクターをつかんでいった。
両親役には、日本を代表する俳優である井浦 新と尾野真千子。監督は、大森立嗣監督をはじめ、日本映画界を牽引する監督たちの現場で助監督を務めてきた森井勇佑。原作と出会って以来、映画化を熱望してきた監督が、原作にはないオリジナルシーンやポップでグラフィカルな映像描写で新たな風を吹き込み、念願の監督デビューを果たす。
そして、繊細な歌声とやわらかなクラシックギターの音色で聴く者を魅了し続け、国内だけでなく海外からも人気を集める音楽家、青葉市子が音楽を手がける。現在公開中。
HP/映画『こちらあみ子』公式ホームページ
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